2009-06-24

大学院中退予定

学部4年で配属して与えられたテーマは、いわゆるトンデモ系だった。

研究室看板とも全然方向性が違う。

日本人なら誰でも知ってる有名メーカーとの共同研究だった。

院生助教に最初に言われたのは「僕・私は一切指導できないから」で、

前の院生が残した実験ノートだけしかなかった。

同級生がマンツーマン院生に教えられている間、

別の棟にある小さな部屋に一日中閉じこもって、

(そこがそのテーマをする人の部屋だった)

やっとひとつの機器の電源の位置がわかる、なんて毎日だった。

どこに何があるかもわからない。

何かが切れても、どこに注文したらいいかわからない。

これとそれを、どう組めば測定できるのかわからない。

人との関わりが皆無な日々を送った。

それでも実験が進んでいなければ、非難されるもの。

教授メーカーからと二重。

本も読んだ。前任者と連絡をとった。

「この状態からこのテーマを大躍進させれば

すごいかっこいいな」と思っていた。

夏までは頑張った。

私には、そこが限界だった。意外に早かった。

テーマ変更を打診した。

助教が協力的だったのでありがたかった。

渋っていた教授はその内どうでもよくなったらしく諦めてくれた。

就活もしておらず、

「とりあえず、後悔しないように」と進学した。院への進学率は90%を越える学部だった。

9月からの研究では

まともな卒論にはならないだろうと思ったが

仕方ない、修士まで長い目で見て取り返そうとこの時は踏ん張るつもりでいた。

その頃には周囲の同期はすっかり院生教員ともなじみ、

一通りの実験操作は当たり前のようにこなしていた。

そんな中で、一から十まで聞いてくる私。

一歩も二歩も遅れていた。

状況を察して丁寧に教えてくれる人もいたし

あからさまに面倒そうにする人もいたが、

何より苦しかったのは自分勝手に感じている劣等感だった。

「聞きたいけど迷惑になってしまう」

「嫌な顔をされたらどうしよう」

「みんなは一人でやっているのに…」

元々、気の弱い方だった。

ただでさえ操作が遅いのに、結果も伴わず、苦しい日々が続く。

追い込みを前に体を壊した時、助教の態度が急変する。

以来一度も口をきいていないから、わからないけれど、

テーマ変更の際の自分の尽力に、私が応えなかったから腹がたったのだろう。

退院すると教授からメールが来た。

「私が許可するまでラボには来ないように。指示は追ってする」と書かれていた。

目の前が、本当に真っ暗になった。

卒業者名簿に載った時には、安心よりも、意味がわからなかった。

卒業式まで、卒業しても、連絡はなかった。

大学最後の1年で、

自分欠点が浮き彫りになり、研究室に残念な気持ちを抱いた。

実験愛着を持てなくなったのが、一番こたえる。

同期は戻ってこないほうがいいという。

あれからも体を壊した人が何人かいる。

何もしたくないなんて許されないと思うのだけど、何もしたくない。

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