2008-05-31

田舎宗教団体について

t* 元キリスト教徒の吐露

親が熱心なキリスト教徒なので、自分も生まれた時点で既にキリスト教に縛られていました。

他から強制されたものを受け入れられるわけもなく、「行きたくない」と言っても全て却下され、嫌々ながらもずっとその団体に属していました。

自分が属していた教会では、老牧師が幅を利かせていて、教団の中でもちょっと特殊な教会でした。

教団全体としては「世界平和を祈る」というような目標を掲げていたのですが、その教会は地域住民の平和最上目標

老牧師が前者について全く触れない訳ではありませんが、やはり他の牧師に比べて頻度は明らかに少ないものでした。

「○○さんの病気が治りました。祈りが届いたのです。みなさん教徒を増やしましょう。」

まぁ、世界平和を唱えるよりはずっと身近な問題だし、キリスト教という観点で言えば間違ってるわけでもありません。

ただ、その教団に属している意味はあるのか?という疑問がずっとありました。

 教団は明確な存在意義と目標を掲げていて、筋も一応は通っているけれど、この教会はなんだか目標が違う方向を向いている気がする。

 言っている事とやっている事が違うから、信用できない。

ただ、自分の意思で属していた訳でもないので、それ程気にはしていませんでした。

全く信じる気が起きなかったというだけで。

それよりも、貴重な休日搾取されることが一番耐えられなかった。

 ・水曜日は夜から祈りの集いがある。

 ・土曜日日曜日の準備で夕方あたりから時間を取られる。

 ・日曜日は午前中に礼拝、午後は教会行事若しくはその準備があるため、殆ど無いに等しい。

 ・長期休暇には何かしらの合宿がある。

これら全てが強制で、この生活が就職するまで続きました。

当然、嫌だと訴えたことが全く無かった訳ではありませんが、全て「そんなことを言うお前が間違っている」といった論法で却下されました。

中学生になった頃、以下のようなやりとりがあったことを今でもよく覚えています。

教会の教師(以下教)「あなたは教会に自分の意思で来ているの?それとも親が言うから仕方なく来ているの?」

自分「・・・(親が強制するからに決まってるだろうが。でもそんなこと言えばどうせ叱られるんだろ?)」

教「ねぇ?」

自分「・・・(教会の教義としてウソダメとか言ってたしなぁ…ウソ言うよりは正直に言った方が正しいよな?)」

教「・・・・・・・・」

自分「・・・親が言うから・・・」

教「だからそれじゃダメって言ってるでしょう!?自分の意思で来なくちゃ!!」

自分「・・・ハイ(だめだこいつ)」

その後は(…強制してるのあんたらじゃん…)とだけ考えて耐え忍びました。

その頃は本当に嫌で嫌で仕方がなかったので、その雰囲気が伝わったのでしょうね。

何故か諦めがついたのもこの時でした。こいつら狂ってるなー、こりゃ無理だわ、と。

ここで接点を断つべきだったのですが、田舎の割に規模の大きい教会だったので、地味に信者が多く、大体がご近所さんです。

家族全員が信者ということになっているのに、いきなり自分だけドロップアウトしたらどうなってしまうのか、当時は想像もできませんでした。

ようやく転機が訪れたのは、就職して数ヶ月めの、一人暮らしを始めたとき。

もう縛られている必要なんてない、と気づきました。

近所に教団に属している教会があり、地元教会から紹介もされていたのですが、1年くらい掛けて疎遠を装い、今では全く行かなくなりました。

地元ではこのことはもうバレていて、たまに帰ると色眼鏡で見られているなと感じますし、母にも心労を掛けているんだろうなとは思いますが、もう通う気は全くありません。

今までどれだけの時間を搾り取られたことか。それも人生で一番貴重な時間を。

今でも休日時間の使い方が下手です。

それでも、少しずつ世界を広げようと努力しています。

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