2007-03-30

インターネットユーザーとして、石原慎太郎は支持できない。

と言うのも、明らかに石原慎太郎ネットを「有害なもの」と看做しているから。

 携帯電話とかパソコンといった現代文明の所産は通話による情報交換の便宜の末に、情報の氾濫(はんらん)をもたらしたといえる。その結果多くの人間たちは大脳生理学公理になぞらえていえば、実がなりすぎて上部の大脳が肥大しすぎ肝心の幹である脳幹の発育が追いつかず、嵐が来たら上の重みに耐えきれず簡単に折れてしまうリンゴの木のように、過剰な情報を収(しま)いきれずに人間としての本質を失いつつあるような気がしてならない。

 子供たちの所持している携帯電話には規制の無いまま、売春や変質者の嗜好(しこう)に応えて容易に多額の金を手にする手引きまでが盛り込まれている。それらの情報風俗の紊乱(びんらん)にとどまらず、若い世代の人間たちの人間としての本質を狂わせてしまいかねない。こうした状況は性愛に関していえば「体は手に入るけれど、心が手に入らない」といった根源的な喪失を生み出してしまう。今時の若い女の子たちが「腐女子」などと呼ばれるような兆候は、喪失以外の何ものでもありはしない。これは若い人間たちだけではなしに、総じて情報の氾濫に巻き込まれている人間たちを本質的に衰弱させてしまう。

石原慎太郎エッセイ『日本よ』「情報氾濫のもたらすもの」


ネット都知事選について言及しているブログ掲示板などを読んでみると、候補者国家観や教育観などについては盛んに言及されているにもかかわらず、今現在自分達がそれを語っている場であるインターネットについて、候補者がどんなスタンスを取っているのか言及しているものはほとんど無いことに驚かされる。

インターネットというのは、現在国民が自由にものを言えるツールとして非常に有用かつ重要なものになっているわけだが、その一方で、何か事件があるたびに槍玉に挙げられてしまう存在でもあり、いつ規制が入ってもおかしくない状況にあるということを、先ず皆が認識しておかなければならない。

そして、そういう状況が存在する以上、ネットユーザーとしては、自分達の表現の場を守るために、選挙時においても、候補者ネットについてどんな考えを持っているのか知っておくべきであって、そこを争点として意識できないことは非常に危険なことだと考える。

そういった観点から見てみると、「大脳生理学公理」などという「トンデモ」としか言いようのない理屈ネット有害視する理由に置いている石原慎太郎には、ネットについての冷静な考察は期待できないし、彼が元々規制についてあまり抵抗のない保守的な人物であるということも考え合わせると、何かのきっかけに規制の動きが持ち上がったらそのまま歯止め無しにネットの自由を脅かす存在となってしまう可能性の高い人物であると考えるべきだろうと思う。

ネットの自由を楽しみ、また、その自由の中に新たな言論の可能性を見出している私には、ただでさえいつ規制が入ってもおかしくない状況にある今の時代に、そのような人物を支持することはとてもできない。

従来の選挙における争点を越え、有権者インターネット社会への影響といった視点を踏まえ政治家選びをしなければならない時代になっているのだということをよく理解しておきたいと思う。

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