はてなキーワード: 社会的制裁とは
俺はかつて学生時代、ちょくちょく痴漢を繰り返していた。しかし今はしていない。
理由はただひとつ、捕まったから。
といっても逮捕されたわけではない。
大きなターミナル駅につく直前、OLにいきなり手をつかまれた。
「痴漢!」
頭が真っ白になる。
モーセの偉業のように人が避けていく中、俺は手を引っ張られながら駅員のもとへ引きずられていった。
細腕に似合わず、痛さを感じるほどのかなりの力だった。
その緊迫感、絶望感は未だに忘れることが出来ない。
もっとも、示談で慰藉料を支払った(きちんとバイトして賄った)し、学校バレして大学からは謹慎を命じられた。
しかし、それ以来、まったく痴漢などという行為をする気は起きない。
そういう罰が怖いということもあるが、自分のした行為の愚かさに気づいたということもある。
痴漢を常習していた頃は、「満員電車に乗る女が悪い」などと嘯いていたが、
そんな自分を謹慎中に冷静に客観的に振り返ると、一気に嫌悪感が生じたのである。
そしてなにより、被害者のことを思うと、彼女たちが不憫で、俺なんて死ねばいいと何度も思った。
身動きも出来ぬ電車の中で、見知らぬ男に体を弄ばれる恐怖はいかばかりか。
俺がたとえ死んだとしても、彼女たちの恐怖はいつまでも残り続けるのだ。
しかし、死ぬよりも、更生するほうに賭けてくれた皆、特に被害者を裏切ることは出来なかった。
そして半年の謹慎が明けた。
ところが、友人たちは普通に接してくれた。それどころか、いたわりすら感じた。
なぜかといえば、友人たちには胃腸を壊して入院していると伝えられていたからだ。
これが一番助かったかもしれない。
俺はこいつらも裏切ったことになるんだな、と思った。
期待を寄せてくれるみなの気持ちを正面から受け止め、過ちは繰り返すまいと堅く堅く心に誓った。
「性犯罪は再犯率が高いから、チンポ斬れよ」という言説がまかり通っているが、あれは間違いだ。
俺のように、逮捕すらされていないのに更生できた奴もいる。
論ずべきは処罰の方法ではなく、どうすれば犯罪は生じないか、そしてどうすれば犯罪者は更生するかということだ。
そういう意味で、最近ここで女性専用車両についての議論が進んでいるのはよいことだと思う。
しかし2chなどで、延々と拷問の方法を考察している人々を見ると、寒気がする。
自慢できる話でもなんでもないが、これだけは伝えたかった。
こんなところでもなければ墓場まで持っていく話だ。
今話題の植草は何度も捕まって(しかもあれだけの社会的制裁を受けながら)いるのに繰り返している以上、
もう更生の見込みはないと思う。
まぁどう考えても三股男がバカだけど、社会的制裁は当人同士じゃなきゃ加えられないような気がする。ましてや結婚してるわけでもないんだから。弄ばれた女が辞める時に全社メールとかすれば良かったのにね。
マナーは自分のために自分の心がけとして守るべきであると思う。
マナーは確かに大事だけど、個人個人が自分の心がけとしてやればいいだけの話で、何かを得られることを期待したり、人に押し付けることじゃないと思う。
マナーと法は根本的には同一のものである。その間の差異がどこにあるかと言うと、それは適用範囲にある。
日本の法は、海外では適用されぬので、海外の人間に日本の法を押し付けることは出来ない。
(もちろんその家のしつけとして子どもに教えるんだったら教えたらいいと思うが。教育はそもそも押し付けであるし、それを続けるかは子どもが大人になって決めればいいこと)
と、あるように適用される範囲とその強制力が小さいだけで、根本的には変わらぬ。
電車で携帯を使わないでねと車内に張り紙があってアナウンスがされるのも押し付けであるが、それに違和感はなかろうと思う。
話は少しずれるが、
- 人を不快にさせるものは悪
とかいう方向にいっちゃうとちょっと違うんじゃないかと思う。(全体主義的)
とはいうものの、人を不快にさせるものこそが悪なのだ。文化圏によっては違うけれども、日本ではもう悪の定義と言っても良いぐらいである。
ブスやキモメンは悪であるが故に、それ相応の社会的制裁を受けているのだ。美人やイケメンも全裸で表に出れば犯罪なのである。
マナーを守る者はマナーを守らない者よりもマナーという点において常に正しい。それはマナー以外の点において正しいことを保障するものではないが、現実にはある程度のバイアスがかかって見られているものである。それが刑法における刑罰と同等の働きをしているのだ。
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お、元気な子からトラバが来てるね。
あらゆる概念には共通な部分と異なる部分があるの。どう考えても違うということはあり得なくて、共通な部分に着目すれば同じものになるし、異なる部分に着目すれば違うものになる。ということも分からないのかも知れないが。
社会的制裁って思いっきり情緒の話なんだから別にいいんじゃねえの
バカじゃねぇの。
あんたが日本にすんでいるのかどうかは知らないけど、仮に日本在住だとして。
法治社会なのに情緒を優先して「別にいいんじゃねえの」って言ったらおしまいだろ。
……と、書いてみたけど。よく考えてみれば元ネタは情緒と法治を混同しているけど、あんたは混同していないんだよな。
すまん。
自分を守る時は法に頼って、コンクリ犯を排除する時は情緒に頼るのはダメだ。混同するな。という事が言いたいだけ。
もっとも生活していくうえで情緒だけが重要で、法を上手く使えない人はたくさん居るとは思うけどね。
自分が善であるから「社会的制裁」をするわけではないんじゃないだろうか。
自分にそうする権利があるとも思ってないというか俎上にすらあげてないと思う。
その相手が罰せられるべき対象だ、悪い人間だと思ったときに、
社会の一部としての自分という位置づけで、
(「社会」は自分と意見が一致しているという思い込みとともに)
「あの人に、他の人と同じ待遇は与えがたい」という判断をするのでは。
少なくとも、そうする人たちが、「自分は善だから」と思っているとは思えないんだよね。
ただ相手が完全な悪であるという認識があるだけで。