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2009-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20090902145132

なるほど。じゃあ公明党与党にいる時に公明党政党助成金を出したり、創価大学創価高校関西創価高校私学助成金を出すのはどうなんだろう。

そう言えば幸福の科学中高一貫校作ろうとしてるね。

2009-01-12

創価学会の罰論はよくできている

創価学会をやめると「不幸になる」とか 「地獄に落ちる」とか、言われます。では、実際に何が起こったのか、書いてみます。ちなみに自分は、ばりばりに学会活動をして、担当部員さんを持っていた時期もありつつ、ある日学会をやめることにして、約3年経ったところ。

罰論がなぜ存在するのかというと、活動の指針となっている御書にそう書いてあるそうで、周りにその理由を深く考えている人はいませんでした。現在は、組織の都合上、脱会ストッパーという役割を果たしてしまっているかもしれませんが、言い出しっぺの人は、そういう深い理由も無く、これと決めて、一生懸命信じている人生の全ての真理から、外れるなんて外道だろ、当然。という意識でそういう言及をしただけです。

で、実際に生活の大きな部分を占めていた活動その他を、全てやめてみました。

何が起こったかというと。。

1,精神的に不安定になった

そこまでのめりこまずにやってたはずなんですが、刷り込みの効果って、意外なほどにすごかったです。唱題をあげないことで生命力が落ちるんじゃないかとか、今考えたら、何言ってるんだお前はという感じなのですが、当時はほんとに落ち着かなかった。頭で否定していても、あぁこれ罰論なんだ。みたいな。体の調子が悪くなったりとかする度にやっぱり活動したほうがいいのかなと、何度も頭をよぎりました。もう一つ、より不安定になる要素として、自分が必要とされ、人間関係の多くを依存していたコミュニティから去るということが、自分をより精神的に孤立させました。これもなかなかきつかった。。創価大学を出ていたこともあり、自分の身の周りにこの状態をきちんと相談できる人がいないことに、活動をやめてから気がつきました。このダブルパンチで、最初の半年はなかなか大変でした。

2,両親、兄弟と疎遠になった

自分は3世で、両親ともに学会員、地区よりもう少し広い単位の、圏の幹部をしていて、つまりかなり積極的な活動家です。姉と弟も、大学創価大学で、いわゆる一家和楽というやつでした。自分がやめると決めてから、実家で何度か言い合いになることがあったのですが、それからは余り連絡を取らなくなりました。取っても事あるごとに本部幹部会に出たかどうか確認されるので、少し疲れました。。兄弟も同様なので、普段は離れて暮らしているので、どうってことないんですが、家族とも相容れないものができてしまうというのは、最初は戸惑いました。

3,しつこく家庭訪問されるようになった

学会員でまともに活動しているのは、全体の3割程度ですが、7割の非活動家の中でも、たぶん有望視されて、しつこいくらいに毎週末、家庭訪問を受けました。本当に面倒。。仕事で疲れて眠っている土曜の午前中を狙って家に来るのはやめてほしい。今は適当にあしらえるようになりましたが、まだ不安定期だった頃は、いちいち精神的にかなり揺さぶられました。あの人たちはそういうのを狙っているのだろうか、とにかく悪びれる様子が一切無いので、少し常識に欠けています。昔は自分も訪問する側だったから、どんな心理だったかというのは、よく分かるんだけどさ、、朝に来たり、家の前で待ってたりするのは、やめてくれ。いい大人なんだから、ぷちストーカーだよ。

という感じで、学会で活動しているほど、また家庭環境や、属している人間関係依存が強いほど、揺り戻しの負荷が相当強くなるということが分かりました。今まで活動に積極的で、依存していた人がパタッとやめたときに潰れてしまったり、活動に戻るパターンは本当にあり得る話だと思う。とても孤独になるからね。

自分が、これに対して取った行動は、、

1,新しく、自分が必要とされていて、コミットメントできる場所をつくる

職場以外にも、自分の居場所、帰れるところ、仲間をつくった。小さなボランティア団体だが、目的に向かっていい雰囲気で活動できていて、人として魅力のある人が多い。専門にしている能力も活かせるので、必要としてもらえるし、居心地が相当良かった。

2,仕事に夢中になる

平日はとことん仕事にのめりこんだ。必要とされる成果は早出しして、チームに具体的に貢献できる余裕を多く持つようにすることで、職場人間関係がとても良くなった。

3,時間が解決する問題に固執しない

揺り戻しが強い時期は、1の団体にも仕事でも、成果が出しづらかった。ただそういう時期は、行動しないことが行動だと信じていた。要は開き直って、時間が経てばこの不安感は抜けるからということで、そういう状態のまま放っておいた。そして、実際に3年近く経ってみて、本当に抜けたので、特に悩まなくて良かったと思う。

3年経った今は、最初の頃の不安定さは無くなり(ほとんど活動してた時のことを思い出さなくなった)、職場も、プライベートでも、人間関係は良好。家族との仲も前よりは良くなって、程よい距離感という感じ。ここはもう少し努力が必要か。。

学会活動していた分の負担が取れたので、勉強や調査できる時間が増えて、仕事でも成果が出しやすくなったし、居心地の良い人たちと過ごせる時間が増えて、より満足のいく生活に近づけることができてきた感じ。なかなか大変だったけど、自分の場合はやめて良かったパターンのようです。

活動をやめた後に、これからどういう人生を選択して、どういう利益を得るために、何のリスクを取るのか、きちんと自力で考える力があれば(また考える余力が残っていれば)先ほどの苦しい状態は抜けられる。

苦しい状態から脱するまでの期間としては、約2年。これは積極的に活動をしていた期間と重なります。だからたぶん、5年やってた人は、普通に戻るのは5年近くかかるし、20年くらいやった人は、20年不安定になるくらいなら、学会の中で認められて頑張る、という選択をするのも、ありかもしれない。

2009-01-03

とりとめもなく書く(CMについて)。

最近、いくらなんでもパチンコ台のCM多すぎるよね。

海物語加山雄三エウレカセブンスターウォーズキン肉マン天童よしみとか南国育ちなんかも時々やってる。

あとパチンコ以外で多いのはプロアクティブ細木数子携帯サイト創価大学。この辺も相当多い。

あと今に始まった傾向でもないけどサラ金系のCMも深夜以外の時間帯に相当進出してきてるように思う。

 

そんだけ新しいCMの枠が増えたってことは今までCM出していた枠が減ってるはずなんだけど。

なんかこう、どうにかなんないんすかねえ。全然何がどうなのかわかんないけど。

あと最近番組宣伝がすごい番組あるじゃないですか。「家電芸人」みたいなやつ。

ああいうのってもう思い切ってCM概念を抜いて、1時間とか2時間ぶっ通しで番組できないんだろうか。

CM時間分の宣伝番組内に十分やってるはずだし。どうなんでしょうねえ。

2008-09-13

創価大学恋愛事情

創価大学に入りたいと言ってる、

地元高等部の後輩と話していて

恋愛の相談をされたことがある。

その子はすでに恋人がいて

創価大学に入った後、寮などで、

先輩から今はそんな時期じゃないといって別れさせられるのを恐れていた。

そんな極端な例はなかなか無いと思うよー、と言っておいたけど、

創価大学恋愛に関する考え方にはそういう雰囲気が確かにあったりする。

この考え方も創価学会組織文化からきていることは間違いない。

創価大学恋愛に対するスタンスは、大学時代恋人をつくってはいけません!というものだ。

創価大学の一番コアな部分、特に女子寮ではこうした極端な考え方が流布されているということが知られている。

なぜこのような考え方なのかといえば、池田先生の指導では、

大学時代は自分を鍛える時代だから、恋愛うつつを抜かしているようではろくな人間にならないからだそうだ。

それよりも今は真剣に勉強したり、組織活動を頑張って福運をたくさん積むことが人生

幸福に繋がるという指導だったような気がする。

そして、特に女子部に対しては、結局悲しい思いをしなければならないのは女性の方だからという話だった。

だから恋人がいると、今はそんな時期なの?という指導が入るという流れになっている。

僕と創価学会

私の家庭は親類も含めて皆、学会員だった。祖父が初めに入会したので、学会3世ということになるらしい。組織では福子と言われるらしいが、大学に入るまでこの言葉は知らなかった。

幼稚園の頃は、家が拠点に使われていて、よく地域の学会員が会合で使っていた。いつもその人達の近くにいたので、勤行や唱題することが普通感覚になっていたと思う。6歳くらいから、母親に言われるままに御本尊の前に座るようになった。で、普通に唱題を始めた。

小学校に入ると、少年部員会というところによく連れて行かれた。会合の中身より、終わった後のゲームお菓子がおいしかったことをよく覚えている。男子部や女子部の兄さん姉さん達がとても優しかった。

この頃、少し悲しかった出来事。年に一回、実家の地域ではお神輿を担ぐ行事があり、小学生達はハッピを着てワッショイワッショイやってるのだが、私は参加させてもらえなかった。近所の人に母親が丁寧に断っていた。今はこういうのって地域との友好を深めるから大丈夫なんだろうか。自分の部屋の窓枠に腰掛けて、隙間から友達を眺めていた。

5年の頃から、少年少女合唱団という組織にも連れて行かれた。月に2回くらい会館に集まって練習し、発表会とかもあった。とりあえず、行くのがひたすらだるかった。2時間くらいほぼ休憩無しで、立ちっぱなしで歌うことに耐えられなかった。ずるずると6年まで続けてしまった。

中学生になり、体育会系部活に入るとかなり忙しくなった。その分、会合に行く回数がかなり減った。だが私はなぜか勤行は欠かさなかった。きちんと朝に唱題をして、夜は三座をあげていた。今考えてもよく続いていたものだと思う。この頃になると、他の人と自分のやっていることの違いに気付きはじめて、頭に??がつく場面が増えてきていた。何で僕だけ?会合ってどういう意味があるの?池田先生って誰?・・・だがそれを言葉にすることもできないし、親も担当男子部にも説明されないので、次第にわざわざ週末を半日潰してまで会合に出る必要はないと自分で考え始めた。

高校に入ると、いよいよ会合に行かなくなった。たぶん高校の3年間で1回か2回くらいしか会館に行ってなかったと思う。部活が忙しかったのもあるが、行く必要性を感じられなかったのが原因だ。担当者の人を玄関先で追い帰す日々だった。強引な担当者は、世間話の後にすぐ、「一緒に唱題あげよう!」とせまってきたのでムカっとしていた。缶コーヒーを買ってきてくれた優しげな担当者もいたなぁ。今となっては人として申し訳無い対応をしていたことを謝りたいです。そして、そんな未活動ぶりの私は、なぜか地域の部長にさせられた。よほど人がいなかったんだろうな。『希望祭』だったか、少し大きめな会合の司会が唯一やった仕事だった気がする。高等部になると、男子と女子は分かれて活動している。ただ、この希望祭のように大きな会合の場合、打ち合わせやら、司会やらで学会員女の子と一緒に作業することになる。こういうのは初めてだったので、すごくドキドキしていた。司会の相方をやってた女の子創価大学に来るって言ってたけど、結局来てるのかなぁ。。

高校までは、こんな感じで学会と関わってきてました。学会2世・3世の人って、こういう人多いんじゃないかと思う。何となく学会に入っていて、中学高校の時に、だんだん反発を始める感じ。7割くらいの人は、そのままほとんど活動しなくなったりしているみたい。まれに関西とか、活発な地域やバリバリの親のもとに生まれると、純粋なだけに超バリバリ活動家になってる高校生もいるけど。。

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