はてなキーワード: 楽天的とは
成人しておいて何が泣き虫だ、と自分でも思う。泣き虫なんて可愛らしいたまじゃねえぞ!とも。
しかし、他人からするとどうでもないようなこと、ほんのちょっとしたことで涙をだしてしまうのだ。たちが悪いことに、そういう時は大抵人前であり、運が悪いとそのことがきっかけで余計な問題を発生させてしまう。泣くな泣くな、今泣くのはやばい!人がいるから!と思うそばから涙の量が2倍に増えていくのでどうしようもない。
高校生の頃、当てられた問題が解けずに泣いたこともある。
今日も講義中にグラミン銀行のドキュメント番組を見ながら泣いてしまった。
(どちらの泣くも声を上げてではなく、瞳にたまった涙が淵を越えてあふれてきて…といった感じ。)
今思い返すと何がそんなにツボに入っていたのか曖昧であるが、これはどうも「前向きに楽天的にレッツポジティブ!」な自分のモットーと現実のとのギャップが大きくなりすぎたときに起こりやすいようであり、そんなときにあるきっかけがあると泣いてしまう、ようである。
今はまだいいのかもしれないが、数年後就職した先でも同じようなパターンに陥って泣いてしまいそうで怖い。
いい年した社会人がミスを咎められただけで泣いちゃうなんてねぇ…。なんだこいつと思われそうであるし、自分でもなにやってんだ、と思う。でも涙は止められないんだよなぁ。でもそれじゃあ仕事にならないし。
いっそのこと泣き女として就職できる先を探すか?
http://anond.hatelabo.jp/20070224120207
「頭のいい人が成功できるかどうかの境目」
http://satoshi.blogs.com/life/2007/02/post_13.html
「その「頭がいい人は成功して当然」という発想が甘すぎる」
こういうのって、つい反応したくなるテーマですね。
私もそんな一人です。
このテーマに対する自分の意見を述べるというより、両者に対するコメントという内容です。
長文、乱文お許しください。
中島さんが、匿名さんの育った環境や頭の良さに対する物差しまで
決め付け的に言及したのはやり過ぎで、中島さんの意図を達成する上では余計なことでしょう。
しかし、中島さんの書いた「常に学び続ける力」、「少しでも成功に近づくためには自分は次に何をすれば良いかを考えろ」は、
匿名さん始め、多くの人(自分も含め)への良いメッセージだと思うのです。
本来、「頭がいいということ」「成功するということ」「成功する方法」といったことには
万人に当てはまる、一意的な、真理のような答えなど見出せるものでしょうか。
中には、「昔は匿名さんのように考えていたけど・・・今は・・・」という人も多く、
同じ人でも年齢、状況、経験によって考え方が変わることは良くあるようです。
私も同じです。これからも変わっていくと思います。
昨日には真理のように思えたことが、明日には全く自己否定されていたり・・・
匿名さんは真理を書いたつもりではなく、あくまで自分の状況に対しての答えを書いたということかもしれません。
ただ、「我真理を得たり!」という色の強い書き方に見えてしまうというところはあります。
匿名さんに対して私が「?」「少し危ういな?」と思うことがあるとしたら、
「能力は持っているだけでは意味がない。発揮できなければただの自己満足に過ぎないのだ。」
の「発揮」する方法をに挙げている、「傲慢」「生意気」「楽天的」というものの
バランスに気をつけて、ということです。
「柔軟」に「臨機応変」に「謙虚」に。
(匿名さんにこれが欠けていると言っている訳ではなく、あくまで文脈からは受け取った印象を踏まえてです。)
????最後に????
自分で出した答えってすごく正当に見えて、他人の答えは穴だらけに見える。
自分を頭がいいと思う人ほどその傾向は強くなりがちではないでしょうか。
その人がほんとに頭がいいか、その答えが正当かは置いておいて、
そういった傾向の強い人に難しいこと、でもすごく大事なことは、
自分の考えをいかに突き崩すか、もっと良い答えを求めて考えつづけるか
ではないかと思います。
例えがあれですが、良い製品はこういったことの繰り返しで良くなっていく訳ですよね。
ちなみに私もこの傾向があり、本当に難しいと感じています。
http://anond.hatelabo.jp/20070224094417
頭のよさを隠して目立たないようにする処世術なんて足枷以外の何物でもないんだよ。それに思い当たったときは愕然としたね。目立つのが嫌だったし、「頭がおよろしいことで」って言われるのが癪だったから、余計な口出しはしないように、しないように十何年も暮らしてきた。その行動は全くの無駄だった。俺はもっと傲慢に、頭のよさを安全に剥き出しにする訓練こそを積むべきだったんだ。
痛いほどわかる。こういうところを早めに悟れるかどうかが、結果を出せるかどうかの境目だと思う。頭が良くてもそれを示せない奴より、多少自信過剰な奴の方がよっぽど使える。それが現実だ。
私は旧帝大の大学院を出た。元々研究者志望だったし、それなりの努力も積み重ねてきた。優秀な奴ばかりが揃っている大学だけれど、研究室に入った頃はホープ的存在だと思われていたらしい。少なくとも、助教授が先輩に「今度入ってきた彼は優秀だよ」と話していたというのは耳にしたことがある。
ところが、私はこれといった実績も残さず、平凡な院生として研究室を去った。研究者への道は早々に断たれ、現在は平凡な新米サラリーマンでしかない。
その一方で、学部生の頃には勉強が好きでもなく、試験前の一夜漬けで単位を稼いでいただけの奴らが、どんどん論文を書いて実績を残したりしている。彼らは既に現在世界を舞台に活躍しつつある。釈然としないが、それが現実だ。
私と彼らの明暗を分けたのは何かと考えるとき、どうしても才能とか努力以外の点が目についてしまう。
率直に言って私に才能がなかったとは思わない。努力もそれなりに重ねてきた。しかし、その努力が私の場合はことごとくピントはずれだった。意味のない努力で時間と労力を浪費した。そして努力すればするほど、自分の力不足を痛感し、恥じることとなった。この状況を打開するまでは何も言う資格はないと思いこみ、やりたい研究テーマや悩みについて率直に相談することを避けてしまった。結局、空回りしたままやりたいこともできず、大半の時間を浪費した。そしてその時間は単なる苦痛な時間でしかなかった。研究に入る前の段階で力を使い果たしてしまったのだ。
一方で彼らには失うものがなかった。もはや不勉強は隠しようもなく、そこで開き直ってやるしかない。手取足取りでも何かをやらなければいけなかった。そこで彼らは平気で先輩や教官に頼った。それでも彼らのプライドが挫けることはなかった。知識も経験もないくせに、やりたいことだけは一人前に主張した。「努力していなかったのだから今できないのは当然、でも俺はやればできるんだ」そう思ったことが彼らの勝因だったのだろう。そして一旦手をつけてしまえば、日頃培った一夜漬けの能力でなんとでもなる。そう、一夜漬けができることも重要な能力の一つなのだ。それを自分で認めてやることこそが重要なのだ。
仕事を始めて三年目くらいから、俺の態度は目に見えて傲慢になったと思う。「どうしてこんな非効率なやり方してるんですか?」みたいなことを堂々と言うようになった。
まさにこういうことができるかどうかが、能力を発揮できるかの境目なのだろう。
実際、先輩や教官にしつこく教えを請いまくることはよく考えてみれば学生の本分なのだ。授業料を払っているのだから、「教えてもらって当然」ぐらいの貪欲さでちょうどいいのだ。何かあれば偉そうに口を利いてみるのがよい。やりたいことを主張されなければ、教官とて指導のしようがあるまい。言うだけ言ってみればいいのだ。失うものは何もない。主張した結果「それは無理だ」と言われても、「いやあ、無理っすか。ははは」と笑っていればそれですむ。そして反省点は心の中だけにとどめ、次のチャンスを狙えば良いだけなのだ。
私はそれがついにわからなかった。
現在の職場では、二度と大学院での過ちを繰り返したくない。そう考えて色々試行錯誤しているが、二十数年間にわたって染みついた習性は容易に直るものではない。思えば、私は今まで所属していたほとんどあらゆる集団で、「彼はもっとできるはずだ」と言われながら、なかなか実力を発揮できなかった。どうやらその原因はこのあたりにあったのだろう。何も失うもののない状況なのに、人前でおどおどしてしまって言いたいことが言えない。もちろん得をした点もあり、「素直で礼儀正しい」という評価を失ったことはない。しかし、若い奴は生意気で楽天的なくらいが本来ちょうどいいのだ。少なくとも、能力を発揮したければそうすべきだ。
最近よく思う、俺のこの性格は、どうしたって滲み出す性格の一部には少し不幸な自分という状態を愛する自分がいる。
恐ろしいことだ。幸せになろうとしていないのは恐ろしいことだ。甘んじている。これでいいやって思ってる。
まぁなんて恐ろしいこと。何故自分は不幸に走るのだ。何故不幸を背負いたがるのだ。おぞましい。
少し不幸な状態の方が自分らしいとすら思っている。この感覚恐ろしい。
楽天的なのが性格なのと同様に、不幸という状態が性格だと思っている、そうでなければいけないようなルートを設定している。
こんなもんだろ。っていう感覚。これは一体なんなのだろう。
自分自信に対するイメージがやはりその人物の行動を大幅に規定するのだろうか。
メモ:不幸へと導く性格