結婚6年目。
子あり。
奥さんが勤め先で、カイロプラクティックの勉強をしている同僚(Aさん)に整体(みたいなもの?)
をしてもらったら大変調子がよいそうな。
先日は無料セミナーに参加され、またまた調子がよくなったとのこと。
「Aさんの紹介だから、特別丁寧に」やっていただいたそうだ。
・・・・・・これってマルチっぽくない?
奥さんに解説、とはいえカイロプラクティックなぞよくわからんので、マルチっぽいとだけ伝える。
そのときは納得してたと思ったのになぁ。
これが1ヶ月ほど前のこと。
Aさんとはその後も接触があったようで、カイロの枕とマットを勧めてきているようだ。
無料で試せるそうだが、しめて20数万円。
こちらとしては、マルチっぽいもんに近寄りたくない思いで一杯だ。(新入社員のころ、マルチに
どっぷりはまってやめていったS君を間近でみた経験がある)
できることならAさんとの接触は避けてほしいくらい。
一昨日の夜に、枕&マットレンタルの話を再び相談された。
できることなら関わってほしくない、奥さん素直すぎるところがあるからと申し上げたところ、
「あなたには関係ないでしょ。私が体が痛くっても何もしてくれないじゃない」
とのたまわれた。
だったら相談するなよ。勝手にすればいい。と言ったあと、お互い口もきかず就寝した。
(子供が寝ててよかった)
今日は冷静に話そうと思ったのだけれど、微妙な空気の中、奥さんが保育園の役員に立候補するべきか
「相談」してきたので、かちんと来た。
そっけない返答をしたら、奥さんはさっさと寝室に引っ込んでしまった。
そうは言うけど、しゃぶり尽くすのって大変だよ。
セックスを娯楽として消費する面で考えれば
勝ち組かな…。
なんかうまく言えない。
そういう時代はもう終わってると思うんだ。俺。
食い散らかしてそいつの面倒を見ること無く、
美味しいところだけしゃぶり尽くす・・・
あとの残飯の部分を、非モテや理系の、女とまともに話せない男連中が
必死になってゲットしても、
そのしゃぶり尽くされたDQN使用済み女の一生の面倒をみるために
命削って働らかなきゃならないwww
どっちが勝ち組か分かるよな?
なんか自分が犯罪行為をやらかして、捕まえに来たとかそう言うわけじゃないんだけど。
ちょっと鬱々としてて10日ほどアパートに引きこもって携帯切って布団被ってgdgdしてただけ。
そしたら、連絡が取れない!と友人知人が学校と警察と管理会社に連絡したらしい。
新聞や宗教の勧誘が激しいので基本的にインターフォン切ってたんだけど、それも災いしたみたいだ。
ドアをがったんがったんやられて、何事かと思ってチェーン外して出てみたらオッサンが5人くらい。
心配した親も今日こっちに来るそうだ。
なんか、大事になっててぽかーんとしてる…
成人した人間が、10日やそこら連絡しないくらい、放っといてくれてもいいんじゃない…?
なんだか酷く申し訳ないので責任を取って死ぬべきだろうか
部屋の中で死んでると思って大勢でやってきたんだろうし…
まぁ元々鬱傾向だから明らかに自殺の心配の方が大きかっただろうけどね
別に自殺してたって良いじゃない?
本人が色々悩んだ上で死のうと思って死んだんだからさ
相談されなかった!一人で悩んでたなんて!とか思うのおこがましいよ
相談するに値しなかっただけ、打ち明けたいと思わなかっただけなんだから…
どっちにしたって賃貸の部屋でなんか死ぬかいな
はぁ…鬱だ死のう…
生きる意味を定義した時、問題になってくるのは何に意味を見いだすか?その意味を確立させるプロセスはどういうものか?
ここに「産まれたことに意味はない」と考える思想がある。これは宗教的にも科学的にもある意味正しい解釈だ。
科学的に、今この自分が存在するのは親や今まで食べてきたものなどの関係性から、偶然細胞が細胞分裂を繰り返し、今の自分が存在しているにすぎない。
宗教的にも今の自分が絶対なる存在だとして定義できないという考え方がある。(一休さんのいう”この世はあの世にいくまでの一休み”みたいな話し)
しかし、この思想には続きがあって、宗教的にも科学的にも合致する続きの考えがある。
それは「なぜ存在するのか?」という疑問の答えは見いだせないが、「とりあえず存在するものは存在するもの」として、その「存在するもの」をどう解釈するのか?というところが問題になる。
つまりこれは、「なぜあるか?」ではなく「あるものを、どう解釈できるか?」という、その存在の働きを問う、機能の問題だ。
科学でいえば、重力などの「既に存在するもの」のパターンを読み解き、そのパターンが及ぼす影響、機能を”当てる”事が科学だ。つまり「既に存在するもの」を「どういうパターン(機能)で解釈するか?」という事が科学だ。
産まれてきた意味はない、しかし「”既に存在する自分”を、どういうパターン(機能)で解釈するか?」つまり「生きる意味はなんだ?」という問い。
この問いに、限りなく正解に近い答えが「人間は楽しむために生きている」という答えだ。
人間の生きる意味を定義した時、それは「楽しむために生きている」と定義できる。(別にこれはただの快楽主義じゃないですよ~きちんと定義できるんです)
この定義の宗教的な理由をいえば、概念的な自問自答がいくつも重なって、その末にでた結論として上記の定義付けをできる、と説明できるが、それはややこしいので、かなり乱暴に言ってみれば、単純に「そう思える理由(概念の検証)があるからそう思える」としか言えない。
しかし、その「そう思える理由」を、もっと明確に科学的に説明することが可能だ。
それは、自分、つまり人間の構造そのものが、そもそも「楽しむために生きる」作りになっているから、と言える。
重力が「既に存在するもの」として、今実際にペンをもち、それを手放したら、ペンは机に落ちる。重力はそういう機能を持っていると定義付けられる。
同じように、人間の脳や体は「既に存在するもの」として、実際に「気持ちの良い行動」をすると、いろんな脳内物質が出て行動が活性化される。人間の脳とは、気持ちのいいことをすると行動が活性化される機能を持っている、と単純に定義できる
「生きる」事の定義が行動であり、逆の「死ぬ」定義が、まったく行動ができない状態だとしたら、「生きる」事の定義は「活発な行動」そのものだ。
そして、その「生きる意味」つまり「活発な行動をする意味」は、科学的に「人間が既にそういう作り(機能)で出来ている」としか説明しようがない。
つまり、産まれてきた理由は説明できないが、それをどういう機能で解釈するか?という事は、人間がどういう作りになっているか?という解釈であり、それは単純に「楽しむために生きている」意外にありえない。
逆に楽しまず、行動が活発でなくなれば、それはどんどん死に近づくという事だ。
人間は、もっと楽しんでいい。いろいろ他人の目が気になったりするだろうが、それで自分を楽しめないのは損だし、楽しまないという事は人間の機能を逆行している。
じゃあ「何が楽しいか?」という定義は、個人の判断、個体差にゆだねられる。ただ、今が楽しくない人は自分で意識して「楽しさを見つける」事だったり、「楽しさを作る」事だったり「自分を変え」たり「慣れ」たりすることで楽しさを見つけられるようになる機能も人間にはちゃんと備わってる。
人間は機能的に、楽しくないことをずっと続けていると脳が死んでいくようなものなのだ。
生きる意味を定義したとき、単なる快楽主義ではなく、その科学的プロセスから見ても、楽しんで生きることが人間にとって一番の正解になるんじゃないかな
人間の機能の結果が「楽しむこと」を「生きる(活発な行動)」へと結びつける。つまり、生きる為には逆説的に「楽しみさえしていれば、なんでもいい」のだ
そして、制約の多い現代社会でより人間の機能に逆らわず生きるためには、とにかく自分にとって重要な情報を書き換えて、なんでもかんでも節操なく楽しんでしまう事だ。楽しいヤツが一番強い
まとめて、ヤフオクで1円で売っちゃえ
バカ、変態かもしれないけど偏ったりマイノリティの話はしてねえよ
ガンガンラフに接触してくる女の対応が楽しい、って男は実は一杯居る
女慣れしてない男ほどそうだし(これは大抵逆だと勘違いされてる)
そこそこ女慣れしてる男でも悪い気なんかしないのさ
とめはねの作者は2回それやったよな
男と一緒に何か頑張ったり悩んだりする女を脇役に配置
→圧倒的に脇役女が大人気
デビュー作と第二作で同じ轍を踏んでて吹いた
とめはねではついに女女してるだけのつまんない女はいなくなった
気さくな子が人気だよね、一貫して
高校の部活でも大学のサークルでも一身に人気集めてたのはそういう子
静かで花みたいな子は美人でもそういう風にはならない
自己陶酔型の変な男がコッソリ単独で言い寄ることは多いらしい
そこそこ可愛くて気さくなら大人気
他はなんもいらない
他大学に彼氏が居るけど軽くみんなのアイドル、みたいな子が居た
まあ気さくさというのも簡単に見習える物ではないかもしれないけど
思考が歪んでいくのが手に取るように分かって、
引きこもるというのは人と関係を持たないことだから、
ある面ではとても楽だと思った。
けれども、外に出ているときより疲れるのはなぜだろう。
あんなに嫌だった実習の飲みもなんだかんだで楽しめて、
1年かかってやっとうち解けられた感じがする。
先入観でものごとを捉えるのはだめだね。狭めてしまうから。
去年の、とうかいままでのわたしはなにかにたいしていつも怒っていたと思う。
たんなるおしつけで考え方は偏ってて・・・。
単なる馬鹿だよなあ。
苦労しないで育ってきちゃったつけがまわってきちゃったんだね。
女に可愛らしくお願いなんてされるとおぞ気が走ったよ。
「ウワーわざとらしい臭いお芝居!」って。
対等とか上から目線ぐらいで勢いよく接してくれる女の子の方が好きだった。
舐めて騙そうとするんじゃなく、ちゃんと人間扱いされてる感じがするから。
まあ歪んだ童貞の好みなんかはどうでもいいだろうけど
その仕草で騙せてるからじゃなくて、単にそういう子が積極的で社交的だからじゃねと常々思ってた。
可愛らしい仕草をしないけど積極的で社交的な子がモテてた、って話は
俺が持ってた仮説を補強してくれる気がする。