本当は自分のブログを立ち上げてそこで書けばいい話なんでしょうけど、どうしても書かずにいれられなかったので。
今回は直接的にこの記事に触発されて書いたものです。
さて、少なくともニコニコ動画御三家(古い表現だが)の中でニコマスはCGCなんて新しいムーブメントではない。
まずはvocaloid、vocaloidこそCGMの代表的コンテンツである。
vocaloidはツールであり、作り手の思い通りにコンテンツをつむぐことができる。
下敷きにする一次創作なんてものも存在しない。パッケージにかかれたキャラクターも、キャラクター展開も無視することも当然可能だ。
オリジナル曲を歌わせれば著作権の問題も完全にクリアすることも可能。
そして、二次創作のコミュニティを突き破って自己実現のツールとすらなる。supercellがそのいい例だ。
東方プロジェクト、これも二次創作とはいえCGMの形の一つだと思う。
zun氏が二次創作について明快かつ寛大なガイドラインを設け手いるのが大きい、そのガイドラインの範囲でなら著作権問題もほぼクリア
できるし、二次創作が更なる創作を爆発的に誘発する呼び水になっている。
キャラクターの設定が良い意味で薄い上、作品世界がが「閉じた」形式になっていないのも自由な発想での創作を可能とするのだろう。
さて、ニコマスはどうか。
ニコマスはどうしても二次創作という形から離れることはできない。一次創作のパッケージ化され閉じたストーリ展開に束縛される。
キャラクターには時間軸に沿った詳細な設定が施され、そこからも逃れることはできない。
さらに、著作権関連の問題は限りなくグレーである。バンナム含め様々な関係者からの黙認のうえにニコマスは成り立っている。
そうなると、ニコマスの進む道は、必然的に旧来の同人世界と同様「ファンアート」の範疇を進まざるを得ない。
一次創作の設定・キャラクター・ストーリーを最大限に尊重しつつ、それを自分の解釈で再構成し形にしていく方法である。
で本題はここからである
この記事を読み、さらにここで言及されている動画とSSに思いをめぐらしたとき、
Tomさんの態度について非常に共感するとともに、ニコマスへの接し方について改めて思いをめぐらさざるを得なかった。
「πタッチ」「とかち」という、アイドルマスターのゲーム内容からみれば全く関係のない部分から火のついたニコマスは、
ステージPV動画で驚異的な表現力を手に入れ、ノベマスや架空戦記ものでストーリーの語り方を手に入れた。
そして今、「im@sストーリー系PV」タグの隆盛を見るように、「ゲーム本編のストーリーやキャラクターの設定を再構成・再構築して映像化する」
という流れが中心になろうとしている。
この記事で触れられているtlopの作品は、ゲーム内での「オーディションの厳しさ」と「トップアイドルへ向かうことの厳しさ」を再構成・再構築して
映像化したものだし、一連のwhoPの作品は「アイマスゲーム内での美希と自分(whoP自身)のかかわり」を前面に押し出して作成されている。
そう、「製作者の設定・キャラクター・ストーリーを最大限に尊重しつつ、それを自分の解釈で再構成」という、ファンアートとしての作品が
高いレベルで輩出されるようになって来たのであり、これはニコマスとしては正常進化と言えるものだ。
しかしである。
この記事のコメント欄でグレゴールさんが言うところの「ニコマス作品は(特にPVは)“賛歌である”という側面がとても強くて、私にはそれが心地よい」と感じている
と感じている私のような人間は・・・。
今からゲーム本編を全クリアし、一次創作の設定・キャラクター・ストーリーを最大限に尊重できる態度を身につけたうえで、Pの数だけある「解釈」を
読み取れ共感できるようになればそれにこしたことはない。
だが、それが自分にできるだろうか。
「ニコマスに関わる人たちはそれぞれどのように振舞っても構わないし、自由です。
ニコマスPは彼女達に何をさせてもいいし、世界をどのようにしても自由なのです。」
Tomさんが呟いた当たり前の自由を、今の自分が許容できるのかとても心許ない。
ニコマスはこれからも進化していくでしょう。しかも、ファンアートとして正常進化していくでしょう。
私としてはその行く末を見て行きたいけれど、私のような存在は「進化していく上での遺物」と化していくでしょう。
それでもいいのです。
「ニコマスに関わる人たちはそれぞれどのように振舞っても構わないし、自由です。