その前にバーバルのファッションはいったって普通よりチョイ葉でぐらいなもんですよ。
割とまともに見られる方だと思うんだけど…
「安い涙」は「グレンラガン」じゃなく「予告」にかかってるんで、増田に勘違いとかどうとか疑問に思わせてしまって申し訳ない。
自分としてはアスカの為に泣きにいくぞーとティッシュまでスタンバイしてたのに、本編始まる前にあの音楽が流れてきただけでリアルタイム視聴時の記憶が蘇って画面がにじんだので、さすがに本編見てから泣けよと。
破の観賞中も何だかんだで、トータルすると最低でも30分以上泣いてたのよ。
自律神経がおかしいのかもわからんが、涙も多用すると安いと感じたわけです。
カネ儲かればいいんだよ。
現状全ての記録を塗り替える勢いでJ1最下位街道まっしぐらな大分トリニータですが。連敗数とかいう以前に16節で14敗って何なの? 15位との勝ち点差12って何なの? (J2に)逝くの? と早くもお通夜ムードですが。
さてここでJ1とJ2の入会(昇格)基準を見ると、「債務超過だったらJ2に上がらせない」「J1昇格時には法人の財務状態をチェックする」的なことが謳われている。
http://www.j-league.or.jp/aboutj/j-club/
基本的には
『債務超過とは、総資産から総負債を引いた値(純資産)が、負であること』
なわけだが、ここでトリニータの財務を見る。今Jで公表されているのは2007年度の分なのだが、
http://www.j-league.or.jp/aboutj/jclub/2007-8/pdf/club2008.pdf
債務超過! まさに債務超過じゃないか!! しかも余所とは桁が違うぞ!
(2008分のチーム公式の決算書があるが財務諸表のうち損益計算書しかウェブ上には載ってないので債務超過かどうかの判断はつかない。
http://www.oita-trinita.co.jp/pdf/2009/release0424.pdf
ただ、「累積の赤字幅が削減」と言っているものの累積赤字解消とは言ってなかったりする。
http://www.oita-trinita.co.jp/information.php?_mode=detail&id=3234 )
流石にJ2に降格するときに入会審査を適用するなんて話は聞いたこともないが、問題は次にJ1に昇格するとき。直接J1の基準に「債務超過があったら昇格させない」と書いているわけではないが、「経営面の昇格基準を満たしている」か否かの条件には当然「J2の経営面の昇格基準=債務超過の有無」が強く加味されるだろう。
もっとも、実際に審査するときの債務超過か否かの判定は少し甘めで
『([1]前期末の純資産)+([2]今期の収支見込み)+([3]今期中の増資)』
要するに前期末に債務超過でも今期(資本の増強・純利益の増加により)債務超過を脱する見込みが確実にあるなら構わないよ、ということになる。ただ、J2に落ちると通常は収入が減る上、トリニータの場合単純にバランスシートが脆弱ってんじゃなくて累積赤字が多額なのである。再昇格時に増資に応じる企業がどれだけあるだろうか。
J2に落ちたが最後、たとえチームそのものは再建できてもJ1には財務的な意味で戻れないかもしれない、それくらいトリニータはヤバいのである。
「脳の右側を描け」を読んだ事ある?
絵心が本当に全く無い人間でも、その本の通りにするだけでかなり描けるようになる。努力とも呼べないぐらい簡単なTIPSを実行するだけ。
http://kotoripiyopiyo.com/2006/05/post.html
これは本に描いてある事を5日間ホテルで教えてくれるワークショップに体験した人の話。超素人→すげぇ上手いに化けるのが描いてある。
この本を読むまで、下手糞、才能が無い、死ねとかお絵描き掲示板で山ほど叩かれてたけどね。今じゃ神とか呼ばれてるよ。
まぁ騙されたと思って、買って読んで実践してみ。
その生き方、のちのちつらいと思うよ。
人間は、流されていると感じたときストレスが溜まり、状況に対し自分が主導権を握ってると感じたとき快楽を感じる。
仕事なんかでも来る仕事を断れない。他人は自分に仕事を押し付け、自分がみんなのためにがんばっても評価もされない。
そして人間はまず自分の身体の奴隷である。つまり身体の限界に流されるんだ。
ところがだ、それに対してほんのわずかでも抵抗できたとき、それはつまり自分の身体をコントロールできた(と感じた)とき、ちょっと考えられないくらいの快楽が起こる。
料理学校に行って料理ができるようになる、とかだけでも気分が(それも浮き沈みではないベースとしての気分の部分が)もう全く違うよ。
林先生ならこういう
まさかとは思いますが、この「出る杭」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思います。
あるいは、「出る杭」は実在して、しかしここに書かれているような行動は全く取っておらず、すべてはあなたの妄想という可能性も読み取れます。
この場合も、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないということになります。
なんてことを最近考えてみたり。
あたしは33歳で、たいしてかわいくもないですが、ありがたいことにデート相手の男性に困ったことはないですね。
今でも普通に合コンでれば一流企業の素敵な男性からお誘い沢山受けます。
みんな収入はいいみたいで都内でも車に乗ってるし、デートもあたしを楽しませてくれようって想いがこもってて、
Hだけを求められることもないです。
★★★
一方のネットはというと、まあ、あたしも恥ずかしい話一時期、ヤフーの有料の出会い系で何人か会ったことあるのですが、
本当に話にならないくらいつまらないデートだったんですね。
それに、本当に寒い誘い方で、気持ち悪いメール送ってきたり頭の悪い人って、やっぱりHの誘い方も寒いんですよね。
で、色々考えると、やっぱり、そういう出会い系に居る人と、2chやはてなで女性を馬鹿にしている人って
多分、同じ人たちなんじゃないかと思うんですよね。
私がヤフーの出会い系で会った、あの寒い人たちが、「女は30過ぎたら廃棄物」とか掲示板でほえてるのかと思うと、怖いというかかわいそうです。
2chなんかはたまに見るのですがもはや悲喜劇のレベルですよね。
まあ、はてなはそれなりにステータスが高い人もいるし、仕事に役立つ面もあるので使ってますが、
それでも圧倒的に孤独で鬱積したどろどろとした想いを溜め込んだ男性が多いように感じます。
だからなんだといわれると困りますが、ネットにこもって近視眼的にならずに、もっとリアルのパーティーや
フィットネスクラブの教室なんかに参加して、女性に対する振舞い方とかを勉強してほしいと思いますね。
対人スキルはネットで楽してノウハウばっか探して身につくと思ったら大間違いで、女性は簡単に見破ってしまうんです。
でも、そういうのは10代の頃からの積み重ねだから、今更遅いのかもしれないですが。。
がんばってくださいね。女性は素敵な男性が増えることを願っているんです(^-^)
そんじゃーね〜♪
バブルがはじけて 疲弊して 世紀末で
生きにくいと感じる人たちが増えてきていて
でも精神病っぽい話題なんてまだ表だって人と話せなくて
そんな世の中で、あの時代の人たちの心情をあれほどうまく映像化した作品は無かった。
人と社会・他者っていうテーマはやはり普遍的だったし、それに至る演出力が類い希だった。
ただのオタ層を越えてOLとかリーマンとかにもうけるような存在になっていったのは事実。
テーマ性でもってエヴァに感動する人は心情の書き方・演出に心うたれてる人が多いと思う。
「アンタ私のこと何も知らないじゃない」
「だってアスカは何も言わない、何も言わないのに分かってくれなんて無理だよ。」
今更子供みたいなこというのも難だけどさ
結局人間ってのは生まれ持った才能と言うか感覚に支配されて生きるしかないんだと思う
絵が描ける人は絵の描き方を感覚としてあらかじめ認識している、これは絵心なんて呼ばれるけど
僕は棒人間しか絵が描けなくて、絵描きに嫉妬することもある、でも本質的には絵を描きたい感覚があるわけじゃない、だから絵を描く努力はしていない
つまりはそういうことなんだな、と最近気づいた
だから感覚の無い僕はこれから自ずから努力をすることはない、それは強制されてないのに好きでもないことをわざわざやらないという感覚に似ている
amazonってすごいと思うのよ
勘違いしないで、ブラジルの密林を名前にすることが凄い訳じゃない
最初売ってた本、つまりBOOKを、社名に付けなかった
この先見性がすごいと思うのよ。
xxxx booksみたいな社名で、サイト名だったら、家電や食べ物を売ることにかなり抵抗があったんじゃないかな。
くだらないw社名程度でそこまで・・
そこをアマゾンなんてぶっ飛んだ名前でやっちゃったもんだから、何でもありみたいな。
bk1は伸びると思うよ。
小説は描写が細かく書かれるのに対して、ssや携帯小説は行為のみしか書かれない。
なぜなのだろう?
小説は、読むと疲労してしまうが、だれでも同じように感動する。
vipのssや携帯小説は、一般の読者には理解不能だが、ssならば漫画やギャルゲーの、携帯小説ならばレディースコミックの文脈を知っている読者には感動を持って受け入れられる。
【なんとなく、考えたこと】
小説の分量の多さは、行為を読み取るべき文脈を規定している。
だから、文脈が読者層によって外から規定されているssや携帯小説には分量が不要になる。
★
しかし、多くの読者は物語の描写ではなく、行為を読みたがるのも事実だ。
ではなく
という事実の方だ。
それに、小説を読み飛ばすとき、地の文を無視して会話だけを読んだ経験は誰にだってあるはずだ。
このとき読者は会話という行為だけ読み、そのときの声色がどうだったかという描写を読み飛ばしている。
本当に小説は、あんなに文章量が多くて良いのか?