僕は仕事と遊びの境界線がないのが理想だ。
理論的には、だから、起きている時間はすべて仕事に当てることができる。
つまりは、自分の好きなことを仕事にするのが理想だった。
現実はそうではない。
僕はそうやって思いながら育ち生きてきたせいか、仕事と遊びの区別をするのがとても苦手だ。
オンオフの切り替えがうまくできない。
仕事人間、ワーカホリックになってしまう。あるいは極端にダラダラ過ごすか、である。それでいいと思っていた。それが僕だし、徹底して好きなことをするのは楽しい。
でも現実は、仕事と遊び(休み)の区別をつけなければいけないような仕事に就いている。
もともと熱中することにはすごくのめり込むタイプだった。
そして責任感と義務感が強い。
たとえいまの仕事が好きになれなくても、義務と責任は果たす。その2つを履行できたことに幾ばくかの喜びを感じることもできる。
でもな、やっぱり疲れるな。自分の身の丈に合っていない生き方は。
「その仕事を天職だと思って取り組め」というのがうちの上の人の考えだが、言いたいことはわかるものの、思いこみは自己欺瞞と密接に絡み合っているから、取り扱いが難しいものだ。
やはり長くはこの仕事続けられないのかもな。本音は続けたくないと思っている。もう少し自分の性格にあった職種で生きていきたい。試してみたいこともある。
だが、そうではなく、あくまでも「ここで、この職場で生きていくんだ」と覚悟して日々を送るべきだろうか。そうするメリットもある。目の前の仕事に集中しやすくなる。そうすれば中途半端な気持ちで取り組むよりずっと成果が期待できる。逆に覚悟が無く辞める気で仕事をやる場合最低限度すら到達できないかも知れない。しかしこの覚悟、精神的肉体的な歪みや疲労が溜まる危険性がある。なぜなら無理しているから。覚悟は覚悟でも、無理をするための覚悟だと思う。
いつか辞めるときは、"惜しまれつつ、颯爽と去る"ことができれば一番いいんだ。
やることをやって、自分の道を進む。
最高裁判所インターネット支部は無用の誤解を招くので、不味いのではないでしょうか。と書いてみる。
ま、リアル猿男君は元から協調性がまるでなく、無い割には、ロジックもマトモに組み立てられないという、「限定された才能有り、社会性皆無」という方なので、俺が権威だーと主張してくると思われるが、そのわりには、どこに行っても、そんあ厨房の名前を聞いたことないし、一向に有名になる気配も無いので、もしかしたら、数学だけできる池沼かもしれない。実際その可能性高い。
子供達よ。
俺には君達に残すべきものも、
伝えるべき言葉も何もない……
というのも俺自身が君達の数倍もの人生を送りながら、
何ひとつ確かな手応えを得られぬまま今日に至ってしまったからだ。
極めて不完全につくられている事に気付くだろう。
まだ若かったある時期、俺はそのような思いにとらわれ、
人とも世界とも安らかに接する事ができなかった。
様々な本を読み、虚構のなかに安息を求め、
一時期、政治にも没頭したが、
恋愛をし、家庭を構えた。
俺は一体、何を求めているのか。
俺はもともと壊れた人間で、
永遠に何かに不平、不満を述べ立てるだけの唾棄すべき人間なのかもしれない。
何という事だろう。
俺は自らがつくったその家庭にも、
安住する事ができなかったのだ。
何という人生だろう。
俺は君達に負の遺産しか残す事ができない。
君達にただ一個のグローブを贈り、
あとはただ詫びながら去っていくしかないのだ。
さようなら、さようなら……
その待遇なら、3食昼寝付きにしてくれよ
http://anond.hatelabo.jp/20080426232547
苦しくて苦しくてしょうがない劣等感とともにそれでも食らいついて生きていくこと。絶対に辞めないこと。もしやめるのであれば、そこから何かを学んで、ほんの少しでも自信をつけて(それはずーっと先のことかもしれない)、それが評価されなかったときにだけ辞めること。生きるってことは耐えられないほど強烈で絶望しか見えてこないような劣等感とともに生きることなんだと思う。
だけど劣等感に耐え続けるだけが能じゃない。自分の弱点は何かを把握し、それをカバーする方法を考えること。訓練法とか。勤務外時間に仕事のための勉強や訓練をすることをめんどくさがってはいけない。もし自分が人より劣ってると考えるなら、訓練の物量でそれをカバーすること。何を訓練すればいいか?集中してやるにはどんな環境がいいのか?仕事終わりにスタバ行ってコーヒー飲みながら毎日ノートを書くのもいいかもしれない。それを習慣にすれば仕事中にも今日はこれを書こうあれを書こうと勉強時間を有効に使う方法を思いつく。
そうやってもがいていくしかない。
8ヶ月前のある日、突然ふられた。付き合って1年半、ほぼ毎日会っていたのに、突然ふられた。一緒に生活するイメージがわかない、つまりは結婚が考えられないからということだった。
彼は仕事が出来ることよりも家庭的であることを望んでいたらしいが、私は仕事が大好きで、掃除は苦手だし、1年半の間に料理なんて数えるほどしかしなかった。それでもいいんだと思っていた。バレンタイン、誕生日、クリスマス。ケーキは、ご飯は、手作りより有名なレストラン、有名なパティシエの方がいいよね?美味しいでしょ?って本気で思っていた。記念日には、サプライズの花・プレゼント、それに夜景の綺麗なレストランを。何事もされて当たり前、だった。
でも、振られて初めて気づいた。私は思った以上に彼が好きで、思った以上に彼に対して怠惰だったようだ。そして、変わった。これまでも、いろんな別れはあったけど、今回ほど変わったことはない。いわゆる、失って初めて気づく大切さってやつだ。半年後、彼とよりを戻して今に至る。
今の私は、夜景の綺麗なレストランで、甘い言葉をささやきながら食事をするよりも、私の作った煮物を「ああ、うめぇ。」「最高に幸せだ。」と言って食べてくれる彼の顔を見ている方が幸せだし、炊き立ての白ご飯と味噌汁を一緒に笑いながら食べて始まる1日が何にもかなわない幸せと知った。部屋に飾る花を抱えて家に帰る道中はちょっとウキウキしている自分の「女」な部分にも出会った。朝、夜とかかってくる電話の中で、「いってらっしゃい。」「おかえりなさい。」「今日も1日お疲れ様。」と毎日伝えられることがこんなにも幸せだとは考えたこともなかった。
仕事はこれまで通り好きだし、同じようにやっている。私は私で変わっていないし、変わってもいる。幸せって案外身近なところにあって、案外お金がかからないものらしい。もうすぐ彼の誕生日。今年は、彼の好物をテーブルいっぱいに並べて、ケーキを焼いて、好きなお酒を準備して、家でゆっくり祝いたい。