まだこんな事を恥ずかしげもなく口に出せる奴が生き残っていたか。貴重じゃ貴重じゃ
「おお!まだ残っていたか」とある種の感動さえ覚えるこの感じ
ありがたやありがたや……
全然関係無い話のようだけど、麻雀の場合も「両手を卓の上に乗せること」「左手は乗せずに卓の下に降ろしておくこと」の両方がマナーだと言われている。
前者は、まだ全自動卓が普及していなかった時代の名残り(つまりはイカサマ防止)だと言われているが、今となってはどちらが正しいのだろう。
「正座」も元々は、家の中で人と向かい合った際に、人を刀で簡単に襲えないようにするマナーから発祥したと聞く。
実は左手を上に出したり、出さなかったりするマナーも、そうした実利というか危険防止の為に生まれたマナーだったりするんだろうか?
マナーとは、実はそうした知恵から生まれた対処策なんではなかろうか?
そして時が経つにつれ、発祥だけが忘れ去られて、決まりだけが残ったものじゃなかろうか。
マナーというのは「人」を不快にさせない所作を指すのだろうけど、この場合の「人」というのは当事者たちが属している共同体に対してであって、異文化、異宗教等には対応しない。同じ共同体に属している彼女に対し、共同体が規範とするマナーを徹底することは共同体の維持、存続のためにきわめて自然なことである。問題なのは彼女が彼のグループに属しているのか否かであり、彼が婿養子などの従の関係にある場合には彼の言い分は説得力を持たないだろう。しかし、彼女が彼に寄り添う形であるならば彼の言い分は当然の要求である。
では、彼と彼女が対等の関係である場合はどうなるのか。この場合は両者の話し合いで決着することが望ましいが、今回の件の場合は話合いがすでに破綻しているようなので、続きは試合会場で。
主従の関係はTPOやらなんやらで揺れ動くのでなんともいえないが、内輪の食事のマナーなんてほとんど気分の問題としか言いようがない。
大勢が嫌いな物を、
自分の嫌いな物だと思い込んで。
信用できない人間が何の気なしに口にした言葉を、
世界の真理と受け取って。
そうして大事にしていた物たちを、たくさん見捨ててきたのに、
「自分らしさ」だなんて今さら、
どこに残っているというのだろうか。
はっきりいってそういった世界があったというのも怪しい
具体的に「どう」あったのか。
結局この手の話になるとマナー厳守者は「そう言うマナーが(とにかく)あるんだ」「そういうマナーをしないといけない場が本当にあったんだ」とただただ「あるんだ。正しいんだ」を繰り返すばかり。肝心の根拠が、全て自身の感覚、経験に基づいているから話にならない。全て自身の感覚・経験に基づいている時点で、それらのマナーなど結局「俺ルール」に他ならない。その事にマナー信仰者は早く気づくべきだ。これでは「ラピュタは本当にあったんだ」とそう変わらないんだよ。
いや、だからそれはどうしてそういいきれるわけ?
長文乙。前半で読むのやめたけど。
言いたいことはわかる。こればかりは世代差なのかもしれない。
実際に、左手を下におろさない・肘もつかないというマナーは、外出着を着て出かけるような場所では当然求められる礼節で、誰が決めたとか誰の正義とかではなく、そういう振る舞いを求められる世界があったのだ。そのような世界が既に存在している、それだけでマナーを守るには十分な理由だった。
でも、今は個人を優先する時代。
どうでもいいがこういう場合のマッチョって、別にそのまんま体育会系って意味じゃないと思う
あとドライなら理系ってわけじゃないと思うし、理系だからドライだから、体育会系じゃないから正しいとかいうわけでも分かってると思うけど勿論ないわけで、意見そのものに反論されているわけだから(マッチョってのは別にそれを総括した感想でしかないだろう)、そんなところを否定したところで何にもならんと思うんだが。つーか理系ならその辺よくわかって無駄だからレスしなさそうだと思うんだけど。
「普通成人したら親がどうこうなんて言い訳するもんじゃない。親は親、子は子。まったく関係ない。なのに30過ぎても中学生みたいなこというやつもいる」ってのと
「親のせいにするなんて、自分を成長させる為の枷にしかならない」って全然違うように思えるが?そう書きたかったのならインターネットがどうこうじゃなくて君の書き方が壊滅的に下手なだけだと思うんだが。そしてインターネットはこの場合伝達手段でしかないからそこに責任を擦り付けるのは増田が親に責任を擦り付けるよりみっともないと思う。(親にある程度の責任がある事自体は事実だけど、この場合ネットは完全に責任がないから)
後者の言い分を書いた後に前者の言い分を書くならまだその思考回路の流れもわからんでもないが、前者だけ書いて、後者の言い分まで分かれというのはエスパーを求めすぎている。
というかこの二つは言い分の種類が違う。後者は前者の理由であって、この二つは同じレベルにある文章じゃない。つまり「親のせいにしても、自分を成長させるためのかせにしかならない」から、「親がどうこうなんていうなよ」となる。結論だけ言われてもその理由は当てられない。この二つは同値ではない。寧ろこのように取れるのは、この「理由」が出たからこそであって、この「理由」が出ていない初期の状態では「するもんじゃない」という時点で読んでいる側は自然と「世間的にそうなってるから、そうしろ」というトートロジー的な、無根拠な言い分としか受け止めない。
これは根性論というより、オッサンのやりがちな説教に近い。「普通そんなこと言うもんじゃない!」とか、完全に無根拠で理屈の全く無い、感情的な言い分ではないかね。さっきもいったが「世間的になんかそうなってるから、そうしろ」という無意味な論理。まあ、そういう根拠なしに「とにかく違うんだ!」という論理は体育会系といえば体育会系ではあるか。なんにせよあの文章から「親のせいにするなんて自分を成長させるためのかせにしかならない」という事を述べたドライな理系的文章、とするにはかなり無理があるだろうね。そもそも理系だから何だ、ドライだから何だ、どうであろうがその内容が保証されるわけではない、のだし。
ますだってまじでそればっかだもんな。
いやな流れだな、じゃねーよ
いっとくけどこれもループにするなよ。君の
やりそうなことくらいわかるよ。図星かな?
ループして面白いと思ってるのお前だけだぜ?
ウザイってこともわからずに同じ展開ばかり。自覚ねーの?
プロの増田ならもっと面白いこと書き込んどけよ。
とりあえず俺が言いたいことは全部吐き出させてもらった。
けどな、決してあんたを許した訳じゃねーからな。わかったか!?
発言内容の正当性に関しては割とどうでもいいみたいで、言いたいこと言ってすっきりすれば、あとは自然に仲良くなるみたいな感じ。どんな問題も自然解決?さっきまでの主張は露と消える。
ほんとに?
左手をテーブルの下に置くのは間違い。
だけど、肘をつくのもまた間違っているだろう。
お皿に手を添えるように腕をテーブルの上に置いたりするのが普通ではないだろうか。