2007-11-29

闘争が目的化する著作権論争に

著作権に関する論争は政治戦の様相を呈していて実際のポジション論理の乖離が目立ってきた。

そもそもの問題は「コンテンツ市場の維持」あるいは「市場の次世代形態への軟着陸」であったはずだ。消費者保護でも業界既得権確保でもなんでもない。

結論だけ求めれば自由経済なのだから権利者とユーザーに埋められない溝があれば「売らない」「買わない」で済む。自由意志の下に搾取など出て来ようが無い。実際、クリエイターからユーザーに至るまで制作流通視聴の手段は以前より増えていてより“自由”になっている。自分の利益を損ねるなら参加しなければいいのだ。POPミュージック中古車ほど需給の情報非対称性があるとも思えない。

また賛同者の多寡は何の意味も持たない。多数決意見だけで価格が決まるならダイヤはタダになる。

しかし行き当たりばったりに市場の些細な失敗の度にそれなりの規模の需給システムが崩壊するのも非効率である。

長年形成したコンテンツの供給機構と市場、それを消費する文化的生活が不安定に晒されるならまずは話し合いでもして落としどころを探りますか、というのが現状のはずだ。

つまり、目的は「どちらかの主張の撃破」では無く「社会の利得の最大化」だ。

極端な例で考えよう。著作者の法的権利を絶無にすればどうなるか。逆に権利を最大化すれば消費者はどう振舞うか。そのどちらでも市場の破滅的縮小が予見できる。

では適正なパワーバランスがあるとしてその根拠はなんであるか。また、運命論的に結果が予見できないのが当然だとしてそれを実験、調整することが予定されていないように見えるのはなぜか。

日常的な業務では当然なのだが、未知のシステムバランスを取るためにプロトタイピングは必須ではないか?

現状はどちらの側も古めかしい政治機構を通じて「一方的な法的規制」という言質を取り、既得権利の拡大を目指しているだけに見える。全体主義国家さながらに、だ。その思惑はどちらが勝利しても市場は崩壊するだろう。

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