2007-11-18

個人史は終焉しない。続く。

ある個人氏の終焉、と言う文章を先日読んだ。男女が出会い子供妊娠した、と言う話だ。

私は十代のころに子宮筋腫が出来、そして手術を受けた。不妊の傾向はあるだろう、と言う診断もその時受け、定期的に通院している。

私は子どもの頃から、よく人のことを聞く人間だった。勉強はするもので、ご飯は食べるもので、部屋は綺麗にするもので、結果は収めるものである、と。自分の生の意味を考え始めたのは思春期の頃だ。大概、親のために、社会のために。上手に生きるため、に収束した。私は常に落胆した。酷く憂鬱に毎日を暮らした。したいことは何も無かった。酒を飲み、寝て、本を読んだ。しかし私は何者にもなれなかったし、ならなかった。なる事を選ぶことすらしなかった、出来なかった。

学生のころに恋人と暮らすようになった。恋人といると安心はした。しかし、恋人は私の生に意味を与えてはくれない。私はその、その人が体験する、一部の風景でしかない。せいぜい、美しく、楽しく、心和ます、そして少し何かを感じたり勉強になる風景でしかない。過ぎていく風景恋愛、と言うのは突き詰めればそれだけでしかない。恋人は幾人か移り変わっていた。

そのうちに社会人になった。ある日に妊娠した。腹部の腫れを感じ病院に行ったら妊娠を告げられた。恋人が「結婚しよう」と言った。私はその笑顔で小さな不安をかき消し「ありがとう」と返事をした。私が、子宮が鉛のような私が。妊娠するとは。

感動はした。したのだ。しかし、その感動は、自分の生に意味が初めて与えられたように思ったからだ。しかしそれは同時に危険な考えだ、と私は思った。生に意味なんか、元々無いのだ。無い。意味を欲しがりすぎて、自分の憂鬱を晴らしたくて、胎児に、子供にそれを負わせるのか筋違いだ…ただ私はセックスをしただけなのだ。もちろん、相手を愛してはいたが。一月、二月と月日が過ぎた。体調の変化が訪れた。私は食事が出来なくなり痩せた。手に骨が浮き、顔が白く、醜い妊婦になった。毎日変わる体調。子宮のせいか、早産の疑いがあると言うことで仕事休職した。

私は家で、一人、自分と世界を初めて繋ぐように思える胎児を体内で育て続けた。

七、八ヶ月に胎児が動きはじめた。腹部を、足で内側から蹴られた。どし、どし。出せ、出せ。彼か、彼女か。私の中の胎児が生きているのを感じた。私に対する周囲の人の反応も、おなかが目立つにつれ変わっていた。母親、と言う肩書きが社会から与えられた。私は、何者かになった。しかし私の頭の中では、私自身ではいまだ私は、私でしかなく何者ですらなかった。私は焦った。母親になることを。

十ヶ月、子供出産した。酷い難産の末に子供が生まれた。子供が私の体内から出たときしばらく泣かなかった。気道がつまっていた。私は思わず喚いていた。助けて、赤ちゃんを!お願いだから!私は自分のために叫んだのだろうか。

出産した日の夜、母親が私のそばで付き添って寝ていた。私は体中の激痛と疼痛、全てにうめいていた。そして自分が、子供を、まるで自分の心の拠り所にしてしまいやしないだろうか、という不安に押しつぶされていた。母親に私は話しかけた。「お母さん」母は答えなかった。寝息が聞こえた。安心したような安らかな寝息。私は一人で声を押し殺して泣いた。

私が何者かであれば、子供をそんな風に思わずにすんだのかもしれないのに。私なんかの元に、子どもが生まれて幸せになれるんだろうか。母親が突然言った。「かわいかったねえ」私はどうしたらいいんだろう。私はもっと早くに、何もせずに、死ぬべきだったんじゃないんだろうか。でも今はもうそれも、許されない。

悩む暇もなく子育てが始まった。乳をやり、オムツを替える。お風呂に入れる。子供の体はグニャグニャしていて、そして良く動く。三時間ごとに乳をやる。休む時間寝る時間も無い。疲労が蓄積した。子供は実際さほどかわいくは無かった。変な赤いグニャグニャだった。しかし、熱かった。命がつまっているかのように熱く赤く、やたらに泣いた。そして何者で無い私を、私だけに縋り付いた。私の乳にむしゃぶりついていた。

私が動物だからか、人間だからか、子供に対して初めて、激しい、愛着ともいえない、胸を締め付けるような何かが、沸き起こった。

数日後に退院して家に帰った。帰った私と子供に、夫はとても正直に言った「なんか変なのが来た」私もそう思った。そうなのだ、変な何かなのだ。よく解らない何かなのだ。現時点では。

周囲の大人たちは、口々にかわいいといい、子供を褒めた。そして子供が生まれたことはよいことだ、良かった、嬉しい、と言った。私はそうですね、と返事した。そして笑った。夫が居てよかった。私は何かを生んだだけなのだ、と言うことを忘れたくなかった。そしてそれは私が私と夫だけが、息子の誕生を喜びたかったのだ。何者かになりたくない。

数ヶ月たって、夫が急に言った「あ、こいつ、息子は、俺の、子供なんだな」この人は今、初めて父親であると言うことに気付いたんだろう。夫は仕事転職した。私は賛成した。夫と喧嘩する事が急激に減った。

息子は今、七歳になった。私は今も、相変わらず何者でもない、と思っている。息子に持たれかからないように、いつも思っている。息子は私の何かではない。私の人生は、私の個人史は、息子が生まれたことで確かに意味を持った、と思う。そしてそう思われる。しかし、息子は私のものでは絶対にない。息子は成長するにつれ自我を持ち自分の意志を表すようになった。息子は自分の人生を生きていく。私は自分の人生を生きていく。個人史は終わらない。

私は風景ではない。夫と息子と長く暮らすうちにそう思うようになった。かつての恋人たちに対して、私は風景であり、一種の彩のようにしか思っていなかった。しかし、そうではない。人生は、時間は一人一人の、それでしかないものだ。それは時折交差する。通り過ぎるだけの風景ではなく、ぶつかって、形を、向きを、何かをお互いに変えたのだ。

私は、自分が生きる意味を理解した。それは私が生きる事自体にあるのだ、と。意味を与えるのではない。ここにただいることだけで、意味があるのだ、少なくとも私にとっては。そしてそれで十分である。



http://neo.g.hatena.ne.jp/nitino/20071203/1196688268

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