単なる論説に、感情を見るだろうか。
ニーチェの論説の感情を、感情論というだろうか。
間違いを打ち出す意味はなんだろうか。
個人の脳みそが出した成否のほどなど、たかが知れているだろう。
学問上認められた極地からの視座でなければ、思考など何の意味もない。
個人にとっての蓋然性なんて、学問的蓋然性からすれば、卑小。
これがわからない人間が大半であり。
わからない人間は、わからないなりに、生きている。
そして、生きているのではなく、人間としては、生かされて家畜になって死ぬだけ。
自意識の奴隷なんだ。
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