ごめん。あなた、誰でしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20100904122315
自分の部署もシステムにお金をかけず、中途半端なひどいのを使わせられてる。
そうなると現場の頑張りというものに頼られる
システムでやっても現場の頑張りでもアウトプットは同じものができる
同じものができるなら現場に頑張らせたほうが安くて確実だ。
その結果現場が疲弊するとは思わないんだろう
自分の首をしめるとも知らずに・・・
駄目。差別はいけない。
なぜ差別はなくらないかなんて、差別する心理にも理由があるみたいな言い方したら、差別意識を強化することになる。
絶対差別は駄目。考えてはいけないし、考えさせてもいけない。
いや分かった上で「そんなもんポルナレフでぐぐれよ」と呆れてるんじゃないの?
実は、自分も似たような体験をしたことがある。
「差別はいけません」だけでなく「なぜ差別がなくならないか」を論じることが大事。
(9/5 0:45追記)
上の話に反論が来てたようだけど、自分は元増田が「差別はいけない」という思想しかもたなくて、一番通じ合っているつもりだった肉親に対して「排除」以上の方法論をもっていなかったことを、一番残念に思った。
よく人は「差別と闘う」「差別は絶対に許さない」と勇ましいことを言う。けれど、一人の差別者の考えを変えることすらできないなら、そんなお題目になんの意味があろう?
問題は、もちろん「差別がなぜ起こるか」であり、そして「差別がなぜなくならないか」である。元増田の母親が差別者となってしまう構造を分析することが大切であり、その構造をどう変えるかについて考えることなしに、どうやって現実の差別と闘う術を身に付けられるだろう?
「その差別に根拠があるかどうかについてはご存じですか?」
「さらに、結婚相手やその子や孫に罪があると、あなた自信はお考えになりますか?」
「罪のない人に対して、言われのない差別をすることは、一般に言って正しいことですか?」
「我が子に苦労をさせたくないという気持ちは、親の気持ちとして正しいと思います」
「けれど、我が子が『必要』と思い『背負おう』と思っている苦労を一方的に排除しようとするのは、
お母さんが仰る「他者の考えを変えようとする傲慢」と同じことではないですか?」
「私は、不当な差別に基づく偏見を共有することは、実際にその差別に荷担することと同じだと考えます」
「そのような不当な行為に荷担するくらいなら、そのことから被る不利益はあえて甘受するというのが私の人生観です」
「お母さんにもそう考えよとは申しませんが、私にとって大切な存在であるお母さんには、私がそのような人生観をもっているという事実について、理解し受け入れて貰いたいとは考えています」
「あくまで私の希望として」
「以上の話におかしい点があれば、伺いたいとは思います」
「苦労する、というのは分かっております」
「端的に言えば私は間違ったことをして楽をするくらいなら、正しいことをして苦労したいのです」
たとえば、元増田には、せめてこの位のことを言って欲しいと思った。
難しいとは思うけれど。
任天堂はこうじゃね?
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サービスにアクセスするハードは任天堂が作成する。いつも通りの高品質、高信頼性。
サービスははてなが作成する。かなり重く頻繁にしなもん様が登場。
何を検索してたのか、ぐぐって確かめてみればいいと思うよ
知識は独占されるべき、っていう思想に無意識に染まっているって事だからね。
Googleなどによって知識はより広範に拡散される時代に、古くさくはある。
もっとも、テストで計っているのは知識だけではないだろうけど…
確かに、例えば窃盗で捕まったとして、
「人権思想を受け入れなければならない理由がないので、他人からお金を盗りました」
よりは、
「金がなく生活が困窮していたので、他人からお金を盗りました」
の方が情状酌量される分、得だな。言う理由がない。
そもそもなぜ「カンニングはダメ」という話が出てきたんだろう。
誰かに言われたから?だとすればその人がそう思ったからにすぎない。
なぜそうなのかも、その人に聞くべきだろう。外野は想像するしかない。
理由がある人には理由があるだろうし、理由がない人には理由がない。
私の文章がつまらないのは、自分でもわかっていた。
わかるけれど、誰かから何かを言われないと、変わる事がむずかしい、と思った。
そう思ったから、ぼろくそに叩かれるのを覚悟の上で、ここに増田として書いてきた。
誰かを非難した文章を書いた覚えはないけれど、そう取られてしまったことがあった。
ろくに読みもしないで、叩いている人がいた。
正直、面白くなかったけれど、そんな事が続いていたある時、挑発や釣りを文章に織り込んで、何かを書かないと誰も読んでくれない、ということに、遅まきながら気が付いた。
キャンペーンガールやぬいぐるみなどの客寄せパンダのような、それ。
やりすぎると本末転倒になるけれど、何もしなくても、多くの人に読んでもらえる訳ではない私にとっては、たぶん身につけなくてはならない技術なのだろう。
ツイッターで誰かがいっていたけれど、「悪口や悪意をいうと、本音と思われる」というのがあった。
確かに、悪口をいうと、疑われにくい。少なくとも、悪意は。
けれど、それが本心なのかは、わからない。
それは、「少なくとも、こいつは本音を書いている」と、思わせるような技術かもしれないし、やっぱり本音かもしれない。
「釣り」を本気でやろうと思ったら、頭が良くないとダメだ、と思った。
書いてあることを疑いすぎる人もいた。
ネットにあることを疑う事自体は、悪くないと思う。
ただ、その人のはてブを見ていると、疑いすぎて、身動きが取れなくなってきているような感じを受けた。
安全のための現状維持、安全のための現状維持、安全のための現状維持…… それがずっと続いていくと、どうなるのだろう?
安全な場所からは出てこないけれど、安全な場所がゆえに煮詰まってゆく。
彼らと比べると、そこそこ釣られている人達のほうが、楽しそうに見える。
話題によっては、無反応の記事もあった。
100のはてブがつけてもらえたとしても、真意をわかっていそうな人は、1人いれば、いいほうだった。
「何故わかってもらえないのだろう?」と、最初は甘ったれた事を考えていたけれど、「100人いる中で、1人には、私の言いたいことがわかってもらえた」のだ。素晴らしい事だ。奇跡だ。
技術としての釣りの部分には、まったく触れず、核心のみだけにコメントしている人は、本当に少ない。
「ネットで自分の話を聞いてもらおう」と思っただけなのに、嫌な思いをした人は、私以外にもいると思う。
嫌な人が多くいる、とまではいわないが、そういう人は声だけはでかいから、大勢いるように錯覚する。あれは不思議だね。
けれど、何の考えも努力もなしに、そういっているのなら、幼稚だとも思う。
もちろん、子供は別だけれど、ある程度の年齢なら、「こちらの話を相手にわかってもらおうと思ったら、段取りが必要になる」という事を考えなくてはならない。
いや、これは、あなたにいっているわけではなくて、自分にいっているのだ。
もちろんこの文章にも、仕掛けがある。
大したものではないので、気がつく人は、すぐに気がつく。
仕掛けに気がつく人は多い。でも、真意には気がつくだろうか?
でもまあ、こういう内容の文章って、人気がないんだけどね。