「どこがオタなの?」って思ってるだけで、ひねくれているわけではないと思う。記事主と混同してるじゃない?
一緒くたにするからそうなる。
ひねくれるっていうかなんだか嫌な気持ちにはなるからそれはそうなのかもしれないなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20071024214711
http://anond.hatelabo.jp/20071024214844
別に根暗じゃないよ。むしろ躁っぽいよ。
俺の親は俺を産み落とした時点で運の尽きだったが、逆に言えば俺の親の元で生まれた時点で運の尽きだった俺よりも幸運だったわけだ。
親には今まで育ててくれた事を感謝しているが、親が俺を育ててくれた理由は単純に法律に子供の扶養義務が記してあるからに過ぎなくて、罪に問われなければ、そして社会的地位も失わずに済むなら捨てるか殺してしまいたいと俺が生まれたときから思っていたのではないだろうか。でなければ今まで人格を否定する様な感じで自分の意見を押し付けたりする事もないのだし、まるで子供の世間知らずであるが故の親に対する妄信的な態度を利用して自分達親にだけ利益になる様な事も強要しなかっただろう。今親に真顔で問い詰めたら殺害されそうだ。
しかしながらこれらは本人達に確認していない以上、俺の憶測の域を出ない事には変わりないし、もし憶測通りだったとしてもたまにくらいは良心の呵責によって後悔したりこれから改善して行こうと思った事もあっただろう。多分。
絶対悪だと闇雲に非難するのは少し躊躇うし、被害妄想の俺には本来そんな権利はない。だからこれからもう、一方に損益のあるような行動は何もできない。表向きに対する明確な理由も無しに縁を切りたい。「嫌いだから」としか言いようが無い。
・子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの(こどもしかるなきたみちだもの、としよりわらうないくみちだもの)
子供の過(あやま)ちを無闇の叱るものではなく、老人の言動を軽々しく笑うものではない。
自分も子供の頃に同じ過ちをした筈だし、やがて年を取れば同じような言動をするようになるということ。
★後に「来た道行く道二人旅、これから通る今日の道、通り直しのできぬ道」と続く。
★作者は不詳。妙好人(=浄土宗の信徒の誰か)という。永六輔が著作『大往生』で、愛知県の犬山で見たビラの言葉を広めたという。
持たざるもの すべて
愛なきもの すべて
この手に抱え込んで
今はどこを、彷徨い行くの?
答えの出ない 希薄の問答
出会わなければ 普通の村民でいられた
不死なる瞬き 中二魂
傷つかないで、僕の学歴
この気持ち散らすため 生まれてきた
一万年と二千年前から増田に来てる
八千年過ぎた頃からもっと書きたくなった
一億と二千年あとも増田に来てる
増田知ったその日から
こうですか、わかりません><
あなたはメンタルな面で「オタ」なんだと思う。オタリーマンの人は、メンタル面がまったくオタじゃない。そのくせ「オタリーマン」とか言ってるから、なんとなく変な感じを受けてしまう。
ニコニコ動画で初音ミクに歌を歌わせた人がいた。その人は、別の動画で体験版(?)の初音ミクを通常版のように使うための動画を作成したらしく、その歌の動画でものすごい非難を受けていた。ニコニコユーザーの多くは、ダブルスタンダードだと思った。確かに、見ること自体は違法性はないのだけど、そもそも自分がニコニコ動画をつかっていること自体に罪悪感めいたものを感じない、マヒした感覚は危険なのではないだろうか。一昔前のw@rezなどとは状況があまりにも違う。
でもアニメとかそんなに興味ないし(DVDとかも買わないし)フィギュアとかプラモとかエロゲとか持ってないし・・・
オタ気質であることは認めるけど自分が何のオタなのかはいまいちわからない。
「最近の若者は云々とか言ってるおやじどもはアホ」と「まったくゆとりはこれだから…」は同じ年代の人たちが言ってると思うんだけど、どっちか言うのやめないとみっともないと思うんだよね。まさか一人で両方言ってる恥ずかしい人はいないと思うけど…。
僕がはてなを利用しはじめたのは、はてなブックマークがきっかけだった。
ソーシャルブックマークというものを初めて使った僕は、
その便利さにいたく感動した。
自分のブックマークは非公開にした。
もしも仕事の資料にしているページから身元がバレたら
なので、コメントはいつも付けなかった。
やがて、僕は他人のコメントに興味を持ち始めるようになった。
「このサイトに対して、他のみんなはどういった感想を持っているんだろう」とか
「この記事は結局何が言いたいのだろう」といったことを知りたいとき、
たいていは誰かのコメントが答えを示してくれた。
そしてその内、彼らのコメントにはさまざまな意志が込められていることに気づいた。
ある人は、心ない誹謗中傷をしたり、
ある人は、記事を誤読したまま非難したりしていた。
最近では、そういったコメントが特に多くなってきたように感じ始めた。
ある時は、そのコメントを諫めるコメントを書くためにブックマークを公開にしようかとも思った。
僕がまごまごしている間に、他の誰かが諫めたりしていた。
諫められた相手は、たいていの場合、コメントを変えることはなかった。
無視しているというより、気づいていないように見えた。
普通の人は、誰かの指摘を受けてコメントを書き加えたりしていたけれど、
たいていの場合、通り過ぎていっただけだった。
彼らは、他人のコメントを見ないのだろうか。
あるいは、ブクマしたページすら見返さないんじゃないだろうか。
書かれた相手は、きっといくらか傷ついているのに。
はてなブックマークで悪口を書いたり、
よく読まずに非難するような人がいなくなれば、
ネットイナゴなんて言われることもなくなるんじゃないかな。
たとえば、この世界が因果応報的な世界であれば、自分の人生を省みるに、小中学生時代にすべての運を使い果たしてしまって、これからは悪いことしか起こらないように感じる。
しかし、実際はそこそこいいことも起こった。たまに自分も悪いことがあると「因果応報なのかな」と思うが、どう考えても、因果応報的な思考法では説明できない事柄も起こる事だってある。
因果応報を信じるものは多い。ユダヤの陰謀とかは信じないのに、極めて非科学的な因果応報は信じてしまう、という人間は後を絶たない。実際には「悪い事をしたらその分だけ償いをしなければならない」というのは極めて特殊な、殺人とか万引きとかそういう事例だけなのであって、人の悪口をいったからといって、それが自分に返ってくる、というのは基本的にはありえないのである。
そもそも、因果応報という考え方の欠陥は、何を「悪」として、何を「善」とするか、ということがあいまいなところに起因している。上で挙げた悪口にしても、たとえば飲み会の席で場を盛り上げるためにナベツネの悪口を言うことは、悪いことなのだろうか。傲慢かつ自分勝手な論理を振り回すナベツネの悪口を言っても誰もそれが「悪」だとは思わず(さすがに「善」とまではいかないだろうが)、むしろその場では拍手喝さいすることの方が多いのではないか。それでも、ナベツネの悪い事をいった人間は後で報いを受けるのか。
別に因果応報が道徳的に悪い、というわけではない。しかし「やられた分はやり返される」という思考法では、どうしようもない問題もあるし、生まれも育ちも貧困だった人間に「この世は因果応報だからきっとこれからいいことがあるよ」などとさとしても、馬の耳に念仏なのである。それなりに幸せに育って、いいことも悪いことも半々ぐらい起きている人にとっては因果応報という考え方は、すばらしく合理的に見えるのかもしれないが。