2007-10-24

因果応報を信じるのはバカげている

 たとえば、この世界因果応報的な世界であれば、自分の人生を省みるに、小中学生時代にすべての運を使い果たしてしまって、これからは悪いことしか起こらないように感じる。

 しかし、実際はそこそこいいことも起こった。たまに自分も悪いことがあると「因果応報なのかな」と思うが、どう考えても、因果応報的な思考法では説明できない事柄も起こる事だってある。

 因果応報を信じるものは多い。ユダヤ陰謀とかは信じないのに、極めて非科学的な因果応報は信じてしまう、という人間は後を絶たない。実際には「悪い事をしたらその分だけ償いをしなければならない」というのは極めて特殊な、殺人とか万引きとかそういう事例だけなのであって、人の悪口をいったからといって、それが自分に返ってくる、というのは基本的にはありえないのである。

 そもそも、因果応報という考え方の欠陥は、何を「悪」として、何を「善」とするか、ということがあいまいなところに起因している。上で挙げた悪口にしても、たとえば飲み会の席で場を盛り上げるためにナベツネの悪口を言うことは、悪いことなのだろうか。傲慢かつ自分勝手論理を振り回すナベツネの悪口を言っても誰もそれが「悪」だとは思わず(さすがに「善」とまではいかないだろうが)、むしろその場では拍手喝さいすることの方が多いのではないか。それでも、ナベツネの悪い事をいった人間は後で報いを受けるのか。

 別に因果応報が道徳的に悪い、というわけではない。しかし「やられた分はやり返される」という思考法では、どうしようもない問題もあるし、生まれも育ちも貧困だった人間に「この世は因果応報だからきっとこれからいいことがあるよ」などとさとしても、馬の耳に念仏なのである。それなりに幸せに育って、いいことも悪いことも半々ぐらい起きている人にとっては因果応報という考え方は、すばらしく合理的に見えるのかもしれないが。

  • 言いたいことはわかるが、もう一度「因果応報」の正しい意味について調べなおした方がよいのではないだろうか。

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