私の中で、『やがて君になる』の主人公小糸侑は、『十二国記』の泰麒と重なる。
いつか大切な気持ちを知るときが来るのだと、侑や泰麒の周囲の人びとは言い聞かせる。泰麒の場合は女官たちが直接に。侑の場合は、少女漫画やラブソングといったメディア、友人たちとの恋バナを通じて。あなたにもいつかその気持ちは訪れるのだと。
けれど、周囲の人びとが提示するのはあくまで1つのモデルに過ぎず、色々な形でその「気持ち」は訪れるのだと、侑も泰麒もわからない。その気持ちは誰にも同じようなかたちで訪れるのだと誤解している。
だから、侑も泰麒も自分の気持ちに気づかない。泰麒は自分の感じた王気を怯えているのだと誤認する。自分の「ほんとうの気持ち」から出た行動を嘘だと間違える。侑は、自分の心臓が高鳴っているのに、高鳴っているのは燈子のそれだと決めつける。どちらも、周囲が教えてくれるモデルとは違った形だから。
自分のことを思い返してもわかる。好きになる気持ちの形は、いつだって漫画みたいにくっきり訪れてくれるとは限らない。ふとした瞬間、これまで周囲の話やメディアから思い描いていたのとは違う形で、その思いは訪れる。そしてそれに気づいたときには、もうこらえようもなく大きなものになっている。