2010-12-21

教養ウンコ

聡明なるみなさんはこの文章が高名な哲学者p j フランクファートの評論からとられたものだとおわかりだと思う。

だけどこの文章は別にウンコな議論に関する再確認を求めようとは思わないし、その翻訳者たる山形浩生の著作についても、彼の翻訳した1984年について語ろうとするものでもない。

ただ単純に、教養課程がウンコだということを言いたいだけだ。

あらゆる間違った教育は、顧客本位ではない。だからといって、教授本位というわけでもない。ただ、試験に向けて最適化されているのだ。

から難解な思想を扱うことはない。

物理学では相対性理論さえ避けられる。最も興味深い現象である量子力学踏み込むことは避けられる。

僕は常々疑問を持ってきた。学校の授業って本当に効率良いやり方なのか?

ずいぶん不恰好じゃないか。進みは遅いし、何しろ起きているのが難儀だ。

そして教科書がクソなんだ。別に分厚さの問題じゃないよ、教科書先生の助けを得ないと使いものにならないようになっているんだ。

クソ退屈な授業とゴミたい教科書を組み合わせても、優れた教科書参考書には全然及ばないんだ。残念ながら。

から最初から優れた本を教えるべきだと思う。

だけどいろいろな理由をつけてそういう本、教えてくれないんだな。

時々優れた先生がいる。尊敬できる人もいるし、その人の授業を受けてよかったなって思うこともある。

だけどそういうものは、少ない。本当に少ない。少なくとも学校教育であの先生は素晴らしかったといえる人は、5本の指で数えられる。

そしてその先生方が素晴らしい所以は、つまり結局は自分でやるしかないということを教えてくれたからだ。

実験や実践を除けば、講義によって得られるものなど、殆ど存在しない。

文学の授業を受けるならドストエフスキー読んでたほうがいいし教授お手製の教科書を読むくらいなら、もっと読むべきたくさんの本がある。

教養を学ぶインセンティブって何があるんだろうか。

進級できないとか、単位がとれない、以外の理由。

教養を深めたいというモチベーションで学ぶには、教養はあまりにも薄くて、退屈だ。

退屈に耐えて学ぶことが大事だとして、人生がクソの山だということを学ぶとして、もしそうなら、ヴォネガットフランツ・カフカを読めばいい話だ。

僕が習った国語先生は、僕が手にとったフランツ・カフカ審判を見て、こう言った

カフカはいいね、不条理だろう、素晴らしい

から教わるべきことが果たしてあるんだろうか?

これは一つの例だ。ただ、彼らを見ててわかるのは、こうやってると理解出来ないままだ、ということだ。権威を一旦ないものにしてしまうと、世の中はずいぶんおかしなことになっているように思える。噛み合ってないジグソーパズルたいなんだ。全然適正のない人が、不思議な力で無理やり位置取っているような・・・。

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