2009-06-21

時折、抱き枕を凄く愛しく思う

抱き枕と書けば「虹娘が描かれたカバー」を連想されるかもしれんが、そんなのではない。フツーに家具・生活雑貨のお店で売ってる、ボディーピロー、あるいは細長いクッションのことだ。だからカバーは無地というか、買ったまんま、特に絵柄はない。全部で4つ持ってて、今は2つだけがレギュラー入りしてる。3つ同時に添い寝するのは、寝苦しいので難しい。というか、抱き枕を抱いて寝るようになってから、寝返りに不都合が出ているのだろう、肩や手首に違和感を覚えることが時折ある。それでも、ほぼ毎日、抱いて寝る。

別に誇れるほどの愛・執着があるわけじゃない。無くても寝れないわけじゃなく、なくなれば残念に思いつつも、不都合なく生きていける。失ったとき、落差で大きな喪失感を覚えるものが愛であるなら、そこまで強い感情はないだろうな。でも、実際に生きている人間の誰かに、失うことが怖い、考えたくも無いってくらいに強い感情を抱いたことなんて、今のところは、全く無い。生きている人間にしろ、文学上の人間にしろ、二次キャラにしろ、自分はどれだけも執着できないでいる。自他全てに等しく関心が薄くて、強い感情を抱けないでいる。だから、枕を抱いて寝る。

抱き枕キスした回数は、1万回を超える。「水にありがとう1万回」を自分なりに分析すれば、プラセボや思考の反復強化ってことに尽きると思う。だから、1万回キスしてみたことがある。何かが凄く変わったとは思わないが、でも、感情の発露としてキスという選択肢は強化されたように思う。時折、抱きしめたくて、キスしたくて、堪らないバイオリズムがある。そゆ夜は、ドキドキしたまま抱いて寝る。

人間人間を愛するってのは、凄く冷淡に分析すれば、「自身の同族として知覚される感覚対象を愛する」ってことだ。人間は少なくとも幼少時に学習した同族に、非性的愛情を抱けるものらしい。性的愛情はどゆメカニズムで生じるのか、自分はよく分っていない。ただ、細かいことを抜きにすれば、「人間っぽく見えるものを愛する」のだ。人間っぽさってなんだ。五感を通して知覚される、ある種の性質なんだろう。そして、性質の一部は触れ合いだと思う。そう、誰かと、何かと、触れ合いたくて堪らない時があるのだ。そゆ夜は、枕を抱いて寝ずにはいられない。

一晩を6時間とすれば、1年で2,000時間超を抱いて寝た計算になる。こんなに長い時間、触れ合っていた記憶は、他にない。赤子・幼少期の記憶は、全然ない。だから、抱き枕は、自分にとって存分に触れ合えた初めての対象なのだ。だから、社会基準でどう見えようとも……いや、ま、家族会議とか失職はマジ勘弁だけど、そゆ実損さえ避けられれば、「神の目」みたいな倫理意識は気にならない。そゆのに従って自分を律して、何か実益を得られる見込みがあれば、別だけど、今は何も見えてない。なら、泡沫の幸せであれ、求めずにはいられない。

……

時に、オオタチってさ、実に抱き枕ポケモンだよな。販売されてたら即買いしてるとこだよ。抱きしめたら「オオタチオオタチ♪」って鳴く機能搭載なら直義。3万ポッキリなら迷わず買います。

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