2008-07-27

異性は友達にはできない、とやけに嬉々として断言する男女は割りといる。

そもそも、そんなことを前もって決定して、友人の候補者を半分に減らすメリットが全く分からないのだが、彼らは妙に嬉しそうに、それを断言する。

異性は、恋愛対象だから無理なのだ、と彼彼女らは言う。しかしそれは、分かるようでよく考えると理由になっていない。

恋愛対象だから無理だ、というのは、恋愛対象と友人対象は全く重ならない、という前提に立っている言葉である。

しかしそれがまず分からない。そもそも、恋愛と友情はどこでどう分かれているのか。もっといえば、親子の愛と友情はどう違うのか、兄弟愛と友情はどう違うのか。たとえば親子の愛情と友情の違いは、「血が繋がっているか否かだよ」とある人は答えるかもしれない。なるほど、その人にとっては、いくら仲がよくても、養子とその育て親の愛情は、永遠に親子の愛情とはならないのだろう。ずっと自分の子だと思って育ててきた子供が、実は他の男の子供だったと分かった父親の愛情は、親子の愛情ではなかったのだろう。言っておくが、勿論皮肉である。

兄弟愛と友情の違いは何なのか。友情と恋愛感情の違いは何なのか。セックスをすれば、恋愛感情なのか。では、「セックスフレンド」という言葉はどうなるのか。そもそも何故、セックスをすれば恋愛感情となるのか。セックスをしなければ、やはり、恋愛感情ではないのか。セックスをしていない恋人たちは、恋愛感情ではなく友情なのか。

およそ人間の抱きうる、「愛情」というものは、一体どうすれば区別が可能なのか。

簡潔に言えば、そもそも区別不可能である。というのが僕の説である。

そもそも漠然とした、「他人に対する強い気持ち」があるだけであり、僕らはそれを、歴史の中で、そのときどきの状況や、環境に応じ、便宜的に言語というもので「他人に対する強い気持ち」にラベルを貼り分けただけにすぎない。

便宜的に、「友情」「恋愛感情」「親の愛情」などと、ラベルわけしたほうが、今までの人間歴史の中で「楽」だったのである。

人間は、未知なるものが基本的に怖い。未知なるものに、とりあえず名前をつけ、既知のものにし、自分の中に取り込んだ気にならねば、安心できない動物である。「他人に対する強い気持ち」では皆不安であった。「僕のこれは、友情だ」「私のこれは、恋愛感情」そうやって分けていかねば不安だった。得体の知れない、強い気持ちが存在するのが嫌であったのだろう。

そんな感じで「便宜的に」分けられたものたちを、今僕達は、逆に、「名前で分けてあるのだから、全ては違うもののはず」と倒錯的に考えてしまっている。そうではない。もともと、漠然としたものであり、僕達人間が、勝手に自由気ままに名前をつけてきただけだ。愛情だけでなく、全ての名詞、いや、全ての言語はそうである。言語というのは、そういうものなのだ。世界の現象を、人間基準で分けるという作業が、言語なのだ。

この気持ちは愛情なのか友情なのかなど、そういう意味で全くどうでもよい、本質を外れた事である。

在るのは、仲良く話している、一緒に遊びに行っている、等の現象であり、その時に発生しているここの心情がどれであるか、などという問題に答えることに、一体どれほどの意味があるというのだろう。

便宜的に分けてきたラベルに、振り回されてどうするのか。道具は使うものであり、道具に僕達が使われていては本末転倒だ。

あるいは、「○○ならば友情で、××ならば恋愛感情、という定義を僕は作った。それに従うと、僕のこれは、友情となるのだ」といいたい人もいるかもしれないが、それは単なる言葉遊びでしかない。勃起するなら恋愛感情で勃起しないならば友情だと定義した、今は勃起しているから恋愛感情だ……それはアメリカ人が相手ならば友情で、イギリス人が相手ならば恋愛感情と定義した、今話しているのはアメリカ人だから、友情である……というのとどう違うのか、って話である。「だから、何だ」としか言い様がない。

女友達と二人きりでお泊り旅行なんてできやしない、だから男女の友情なんてありはしない、という男は割といる。彼らからすれば、「二人きりで泊まるなんて、勃起してしまう」ということなのだろうが、勃起したから何だというのだろう?

勃起したからといって襲うわけでは当然あるまい。それは犯罪行為である。それとも、「自分は、勃起したら、相手の同意なく襲ってしまう、犯罪者予備軍です」という自己認識なのだろうか?腹が減ったからといって、コンビニおにぎりを突然むさぼり食う奴はほとんどいないと思うのだが、確かにそうしてしまう、理性の効かぬ人間というのは少数ながら存在する。自分がその、「理性の効かぬ人間である」ことを認識し、そのために事前に防ごうという腹ならば、それはそれで正しいのだろうが、そんな人間は「女友達旅行なんてできない」派の人間の中でも少数派だろう。ほとんどは、当たり前だが、そんな抑制くらいは可能なはずである。

勃起したから、何だというのだろう?多くの「旅行なんて無理」な人たちは、勃起したといってもそれを抑制できるわけである。ならば、勃起したから、何だというのだろう?体の一部が動いたから、これは、友情じゃなく、恋愛感情だ、もう友達じゃないのだ、となるのだろうか?そこまで厳しく種類わけする意味は一体どこにあるのだろうか?

ベルわけに必死になる意味が、僕には分からない。どこからが友情でどこからが恋愛だの何だの、どうでもいいことじゃないのか。この人と話していると楽しい、であるとか、この人といると面白い、であるとか、大事なのはそこであって、それが友情なのか、恋愛感情なのか、そんなものをラベルわけしたところで、今の僕の気持ちが変化するわけでも、相手の気持ちが変化するわけでもないだろう。

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