どうして鎧を身にまとう事になったのかは人それぞれいろいろでしょう。それぞれが何らかの痛い思いをしてしまったから、防御しなければ生きてこれず、結果として分厚い鎧を身にまとってしまったのだとしたら、あまりその人を笑わないであげてほしい。余計に鎧をかぶってしまうよ。
どちらかというと、スタートラインは一緒だったけどその過程で何があったかが問題で、それは結局運命というやつだと思います。あなたが幸せだとしたら、それはあなたの努力ではなくて周りの環境と出会いが良かったからだと思います。自分の努力だと思うのはうぬぼれです。
弱音に対して黙れというのは身近な相手に直接クチで言ってあげてください。自覚していようと無かろうと、鎧が必要な多くの人に嘲りを食らわすのは良くありません。その言葉が人のためになると思っているのであればそれも傲慢です。自身の運のよさに感謝して黙っていてください。
人の努力というのは定量化できないし、そもそもするべき物ではない。と考えているんだ。人が他人の努力具合について3なのか4なのかなどと判断すること自体が間違っている。ボーダーラインのあいまいさの問題ではなく、他人が判断できるものではないということだ。
わかりやすい不幸と、わかりにくい不幸がある。わかりやすい不幸は明文化が可能であり、他人または自分に説明することが可能である。わかりにくい不幸は逆に明文化が不可能なもののことを言う。
これが意味するのは、整理のしやすさ、同情の得やすさ、乗り越えるべき感情の明確化のしやすさに、大きな違いがあるという事だ。
あなたが4だと決め付けた相手にはわかりにくい不幸があったに過ぎない。と、思うなぁ。
そして、見せ付ける事が出来るというのはわかりやすい不幸に限られる。細かく分散化した不幸や他人の人生というコンテキストでは理解できないようなわかりにくい不幸はこ一時間話して伝わるものではない。わからないから伝わらないから4だと思われるに過ぎない。
あるいは、明文化できないものは自分でもきちんと把握できないから、自分自身で4だと思い込んでしまうこともある。自分なんて努力も出来ないダメなやつだと。
いや、僕が言いたいのは、「そんな区分は存在しない」です。誰にも判断できないそれは無いのと同義です。
4は居ない。誰にも判断付かないのだから。どんな他者からも認識できない物は存在しないということです。あなたが4が居たと、4を見たと思った人が居たとしても、他人がそれは4だと断定することは出来ないという意味です。
安易に「幸せな奴が幸せなのはお前らが努力したからじゃない、自惚れるな」と、2の人間に対するメッセージを全人間に送ることが危険だといっている。
なにも危険なことは無い。幸せであるならそれに感謝したほうがいい。自分の努力の賜物だなどと思う必要は無い。
幸せな奴が幸せなのは、実際努力したおかげであるパターンも、君たちにとってその事実は認めたくない事実なのかもしれないが、現実存在するのだ。
どうして存在すると言えるのだろう。存在していてほしいと思っているだけではないか。
「努力しているかどうかなんて誰にも分からない、だから、お前の努力は無いのだ。ほらやはり、お前は努力していないのだ。努力すべきだ」と来るだけだろう。この文面はいささか非論理的だが、そもそも君の「努力しているかどうかなど誰にも判断できない、よって、努力のおかげで成功した奴などいないのである」という理屈が非論理的であるからこのくらいの責めはどうしても来てしまうだろうね。そうなって困るのは、君たちだ。
言ってもいないことで非難されたって知ったことじゃないです。努力を認めるかどうかと、努力が成功と幸せを生んだというのは別だと思います。努力は努力、成功は成功。努力したから成功したのではなくて、努力しようがしまいが成功するやつはせいこうする。失敗するやつは失敗する。成功は努力のおかげではないと言っているだけなのに、努力していないと言ったと攻められる筋合いはないよ。誤読する人の可能性を恐れて主張を変えることもないよ。
結果として分厚い鎧を身にまとってしまったのだとしたら、あまりその人を笑わないであげてほしい。余計に鎧をかぶってしまうよ。 そういう人を見て笑うことができるタイプの人は...
あなたが幸せだとしたら、それはあなたの努力ではなくて周りの環境と出会いが良かったからだと思います。自分の努力だと思うのはうぬぼれです。 それもまた極端であると思う。そ...
えーっと、努力が定量化できる、という主旨の話ではまずない、(というかそんなことはまったく書いていない)ことにまず注意してほしい。 相手が1なのか4なのかなんなのか、見極...
いや、僕が言いたいのは、「そんな区分は存在しない」です。誰にも判断できないそれは無いのと同義です。 4は居ない。誰にも判断付かないのだから。どんな他者からも認識できな...
物事が存在すると言う方が立証する責任がある。それが出来ないならないのだ。ネッシーは居ないのだ。