いや、僕が言いたいのは、「そんな区分は存在しない」です。誰にも判断できないそれは無いのと同義です。
4は居ない。誰にも判断付かないのだから。どんな他者からも認識できない物は存在しないということです。あなたが4が居たと、4を見たと思った人が居たとしても、他人がそれは4だと断定することは出来ないという意味です。
判断できないから、「無い」というのはいささか飛躍に過ぎる乱暴な結論だ。判断できないのは、「無い」ということの証明にはならない。判断できない、というのは、「あの人が、1から4の、どれなのか、分からない」ということだ。「1から4の、どれなのか、判断できない」というのは、「4などない」ということではない。人間にはその区分をなかなかはっきり決断できない、というだけで、区分はそれは別として実際に存在する。
そういう意味では、君は「どうして存在するなんていえる」、というが、どちらかといえば、存在する・しない、というより、「存在している可能性がある」というニュアンスでここでは言っている。というか、どの道君も「4なんていない」というが、それはそっくりそのまま君に「なぜ、4がいないなどといえる?」と返ってきてしまうのだ。何しろ、1から4のどれなのか、人間には判断しづらいものであるから、正確に言えば、4は、いるかもしれないし、いないかもしれない、(ただ人間の多様性と数を考えれば、いると考えるのが自然だが)というだけの話だ。
また、1から4の区分は、単純に論理的に分けるとそれしかないというだけで、僕が観測した結果、ではないことに注意して欲しい。
いわば、「この世には二種類の人間がいる。犬が好きな人間と、それ以外だ」というような区分だ。
であるからして、そもそも「そんな区分は無い」ということ自体ズレている。区分など、もともと何にもない。A型か、B型か……という区分も、人間が勝手にそういう区分を作っただけである。区分というのは全てそうした性質を持っている。人間が、思考のために作りだしたものであって、「区分は無い」というのは全くズレた台詞である。在るとか無いとかではなく、区分は思考の補助のために作るものだ。
で、現実、犬が好きな人しか、この世にはいないかもしれない。「犬なんて嫌いです」と言ってる人も本当はどうだか分からないし、僕が「あの人は犬が嫌いだろう」と思っていてもその人が犬嫌いかどうかなんて分からないのだ。しかし、可能性として、犬が嫌いな人はおそらくいる、潜在的に存在する以上、「皆犬好きに決まってるんですよ。犬が嫌いって言ってる人、それは思いあがりです。あなただって、犬の可愛さに、絶対にまいっているはずなんです」などと声をかけるのは危険である、ということだ。
僕が「あいつは4だ」と断言してそれが当たっているかどうかなどという話では全く無い。
実際にそうであるか判断できないから、というのではなく、論理的にわけるとその4種類しかこの世にはいず、潜在的に4番も存在している、というだけの単純な話だ。分かるだろうか?
思う必要はない、というのは、君の勝手な価値観の押し付けであろう。それが、「危険」なのだ。弱者だからといって、強者に自分の価値観を押し付けていいわけではないのに、そこに気付かず「別にいいじゃないか。努力の賜物なんて思わなくたって」と無神経に言ってしまう、そのことに弱者側に立つが故に気付けていない、ということが危険だ。分かるだろうか?
別段、自分の努力の賜物ではない、などと思う必要もまたないはずだ。幸せであるなら感謝していればいいのだ、というのも勝手である。実際にその人の努力の賜物だったのか、そうでなかったのか、判断は難しいだろうが、努力の賜物だとその人が感じているなら、それでいい。「実際にそうなのかも」しれないのだから、わざわざ「そうではないかもしれないのだから黙っているべき」などと言う必要はないだろう。そんなことは個々人の自由であって、「お前の幸せは絶対に努力の賜物なんかじゃないので、「あぁ、自分が努力したおかげだぁ」などと、思うな!」というのは、正直、「努力しているのに報われない弱者」の僻みに過ぎないだろう。弱者であることは同情する。しかし、だからといって理不尽な僻みをぶつけ、それを正当化させてよいわけではないのだ。
また、そもそも、「幸せな奴が幸せなのは、努力の賜物なんかじゃない」というのは、「何故そうなのか」が全く語られていない。
僕に「なぜ、努力の賜物で幸せになった人がいるといえる」と問う前に、本来は、「幸せな奴が幸せなのは、努力の賜物なんかじゃない、それは自惚れなのだ」という主張の根拠を君が説明するべきなのだが……。そちらの主張の方が先だからね。
「努力しているかどうかなど誰にも判断できない、よって、努力のおかげで成功した奴などいないのである」
<注:
4は居ない。誰にも判断付かないのだから。どんな他者からも認識できない物は存在しないということです。あなたが4が居たと、4を見たと思った人が居たとしても、他人がそれは4だと断定することは出来ない
というのは、すなわち、僕が「あの人は4だよ。努力していないもの」と言ったとしても、本当に努力しているかしていないかは分からないという意味であると判断する。「努力しているかしていないか」ではなく、「努力のおかげで幸せになれているのかどうかは分からない」という意味も考慮したが、それだと「4がいたと思っても、他人が4と判断することはできない」という文章の存在する意味が不明なので、それは違うと判断させてもらった。そういうことがいいたいのではなかった、というなら説明を加えてくれ
>
という君の乱暴な非論理的な理屈を採用すると、返って君が一番の不利益を食らうことにも注意すべきだ。
「努力しているかどうかなんて誰にも分からない、だから、お前の努力は無いのだ。ほらやはり、お前は努力していないのだ。努力すべきだ」と来るだけだろう。この文面はいささか非論理的だが、そもそも君の「努力しているかどうかなど誰にも判断できない、よって、努力のおかげで成功した奴などいないのである」という理屈が非論理的であるからこのくらいの責めはどうしても来てしまうだろうね。そうなって困るのは、君たちだ。
物事が存在すると言う方が立証する責任がある。それが出来ないならないのだ。ネッシーは居ないのだ。
どうして鎧を身にまとう事になったのかは人それぞれいろいろでしょう。それぞれが何らかの痛い思いをしてしまったから、防御しなければ生きてこれず、結果として分厚い鎧を身にま...
結果として分厚い鎧を身にまとってしまったのだとしたら、あまりその人を笑わないであげてほしい。余計に鎧をかぶってしまうよ。 そういう人を見て笑うことができるタイプの人は...
あなたが幸せだとしたら、それはあなたの努力ではなくて周りの環境と出会いが良かったからだと思います。自分の努力だと思うのはうぬぼれです。 それもまた極端であると思う。そ...
えーっと、努力が定量化できる、という主旨の話ではまずない、(というかそんなことはまったく書いていない)ことにまず注意してほしい。 相手が1なのか4なのかなんなのか、見極...