2008-03-25

茨城通り魔殺傷事件で思うこと

またゲームバッシングが強くなりそうで恐ろしい。

しかも児童ポルノ関連でアニメ漫画

無意味規制されてしまう可能性がある時期にだから性質が悪い・・・

ありきたりだろうけど考えを整理するためにもつらつらと書いてみる。

なぜこういうときにゲームが問題にされるかというと

「事件の発想の元になったから」と

「欲望を刺激したから」の二つが思いつくわけだけど、

前者の場合はドラマ小説などに

殺傷の場面はいくらでもあるわけだから、

ただ単に選んだ発想が多くの人を傷つけるものであっただけで

その発想自体に非を問うことはできない、というのが順当な考えに思える。

例えば性表現でも「寝た子を起こさない」という言葉が用いられることがあるが

未成年に限って言えばゾーニングの問題であり、

発想を規制することは大人に対しては想像など内面の自由の侵害でしかなくなる。

仮に発想そのものを人類から規制し消滅させるSF的な仕組みがあったとしたら

思想統制社会そのもので非常にナンセンスだ。

次に「欲望を刺激したから」について考えると

人は誰しも程度に違いがあれ欲望を抱くもので

重要なのはそれを実行に移すかどうかということになる。

サッカーゲームをしてサッカーをしたい、という場合は

コストリスクもほぼ無いといってよく社会的にもポジティブな要求と評価される。

それに対し殺人衝動は確実に達成できるとはいえず

反撃による身体リスク生理的嫌悪があり

成功したとしても科せられる社会リスクは死に等しい。

行動はそれらリスク認識よりも欲望が強くなったときに行われるわけだが、

ゲーム単体にそこまでの欲望の強化作用があるとは考えにくい。

むしろそれができるならゲームにまた違った可能性が開けるといってもよさそうだ。

シリアスゲームで米兵の初陣で戦える率が向上したという話はあるが

 それは慣れであり、欲望の強化ではない             )

つまり、この事件で本来一番最初に考えるべきは

自暴自棄になることで欲望より認知したリスクが低い状態になっていたことと思える。

希望がない、死んでもよいという状態であれば

あらゆるリスクが0に近くなりゲームの模倣に限らず犯罪を起こしうる可能性は飛躍的にあがる。

ゲーム規制するよりもそういう状況にある人を減らすほうがよほど効果は大きいはずだ。

それを踏まえずにスケープゴートとしてゲームゲームを遊ぶ人を叩くのは

同じような状況にある人をさらに追い詰め、逆効果であるとすら考えられる。

事件の背景として日本がいまだ年3万人の自殺大国であることも忘れるべきではない。


規制はそもそも下策であり、初めに考えられるべき上策は

上記の自棄になってる人に生きる希望を与える、ということも含めて

なぜ人を殺してはいけないかなどの感性の強化や

欲望を自分自身で制御する考え方の伝達、

欲望を抱くこと自体を理解・許容しての事前のカウンセリングの普及などで追い詰めない、

といったことだと思えるんだけれどなぁ。

理想論だろうけれど規制派は自分自身で人間の可能性を放棄しようとしてるようにすら見える。

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