2007-12-04

遠距離になって三ヶ月

彼が海外に行って三ヶ月経った。時差は今向こうは冬なので11時間だ。夏は10時間だった。たかだか一時間ずれただけで一気に時間帯が合わなくなった。電話をかける時間がない、電話に出る時間もない。わずかな合間を縫ってかけていた昼休み電話もなくなった。深夜にビデオチャットをやるのがせいぜいだ。

ビデオチャットというのはあんまり好きではない。耳元で声はするのに、そことは違う方向に人がいる。ぐいぐいとイヤホンを耳の中に押し込んでみればみるほど近くにいる気がするのに、実際に手を伸ばしても画面に手がぶつかる。近くに聞こえるからこそ余計に遠さが際立つ。

手紙を書くよというのにもう何ヶ月か書かないまま放り出している。送ろうと思っている写真があるのに、メールで送ればすぐなのにそれもなんとなく手をつけていない。わだかまる。心に。いろんなものが。手を握っては開く。手をつないだときの感覚が思い出せなくなっている。寂しい。寂しい。

でもそんな感覚ももう予定調和で慣れてしまった。ちょっと泣きそうな声出してみたり、ビデオチャットでうまく映るように角度研究してみたり、笑い顔の練習してみたり、そういうのも飽きてきた。そういうのじゃ伝わらない、伝えたいものは伝わらない。そういうことに気付いてしまったからなんだろうか。

海外に行くことが決まる前、いろいろと話をした。話をしようとした。でもがんばれという言葉以外何も思いつかなかった。私にはこれからというのが想像できなかった。向こうに行っても何かしてとか毎日電話してとかそういう要求すら思い浮かばなかった。ただ大丈夫なんだろうか生きて帰ってくるんだろうかとかそういうことしか考えてなかった。そうするうちに海外に行くことは正式に決まり、それに向けて私自身も巻き込まれながら準備が進んだ。よくわからなかった。何も実感が伴わなかった。私自身がいこうと思ったわけではないからかもしれない。あくまでも他人事でそれ以上ではなかった。そのことが少し寂しかった。蚊帳の外にいるようで。釈然としない思いだけが積み重なっていった。静かに。

それでもいつだったかけんかをした。ブログと書けばいいんじゃない?と私は勧めていた。その方が向こうでどういうことやってるかわかるし、気楽にかけるから、コメントとかもできるし、他にも知りたい人いるだろうし、と言って勧めていた。彼はホームページを作ったことがあった。素人が作ったと一目でわかるようなHTMLだけの。ユーザビリティーのユの字も知らないような、○○のホームページにようこそ!とか書いちゃってるような。私はそれを知っていたし、でも何もいわなかった。ただ、ブログなんていいんじゃないと勧めただけだった。なぜか彼はそのことについて怒った。私にはわからなかった。何に怒り出したのかいまいちわからなかった。自分でもわからない釈然としない思いの上にその「わからない」が重なって、私は言い返した。なんなのさ!と声を上げた。彼は言い返した。けんかはめったにしなかったから、二人がそろって感情的になるのは珍しいことだった。

「結局賛成してないんじゃないか!」

「何が」

「そうやっていっつもなんか反対してくるんだよ、いつも!」

「なにを!いつもっていつ!」

まだ暑い季節だった。夜もだいぶ更けて、生ぬるい風が吹いていた。

「そういう……!」

「じゃぁ何で行くのよ!」

口から言葉が滑り落ちた。滑り落ちたと言う感覚だった。かつん、というミュールのかかとをアスファルトに叩きつける音が高く響いた。

彼は目を丸くして黙った。私も黙った。全てのそれまでがどこかへ行ってしまって、私の最後の言葉だけ残った。彼は何か口の中でもごもごとつぶやいたが、聞き取れる言葉にはならなかった。私は黙りこくってうつむいた。あぁこれか、と何かがすとんと私の中で落ちて、どこかに収まった。そういう感覚だった。脈絡なく滑り落ちてきて釈然としない思いを押しのけて私の中に収まってしまった。もうずっと前から知っていることのように。

それからしばらくして彼は予定通り行ってしまい、私もまたいつもどおりに日常を送り続けている。永遠にこういう日が続くような気がしている。何が目的だったのか、何がしたかったのか、何を求めているのか、なんだかもうわからない。電話をするためだけにつながり続けているような気がする。ビデオチャットをするためだけに付き合い続けているような気がする。何が目的で、何がしたくて、何を求めていたのか、全然わからない。わからなくなってしまった。目に見える形でそれを得ることがなくなってしまった。ただ漫然と日常が続いていく。ただそれだけ。

あのとき、彼は私の言葉には答えなかった。私もそれから一度も聞きはしなかった。明確な理由はきいたことがない。それなりのよくある、万人に言えばなんとなく納得できてしまうような理由ばかり聞かされて、でもそれが全てではないことを私は直感的に知っている。

伝えたいことは伝わらない。電話は遠すぎる。時差を越えて、数々の物理的障害を切り抜けて届くまでにたくさんのものが犠牲になってしまう。手紙電話ビデオチャットでも、すぐに届いてもゆっくりしか届かなくてもどちらにせよとどかないものは届かない。たとえちかくにいたとしても。私はあの夜、それを知ってしまった。自分の声が自分の耳に届いたときに、何が足りなかったか、何を伝えることができなかったのか、わかってしまった。わかってしまったら、どうでもよくなってしまった。どうでもいいというのはわずかに語弊があるが、それより近い言葉と言うのは存在しない。そういう伝わらなさを私は知ってしまった。これからも言葉で彼に伝えることはないだろう。伝わることはもちろんないだろう。

何度も何度も握り締めたのに、あの掌の感覚はもう曖昧になっている。

  • 「私を置いて行かないでよ」とすがりつくこと。 「『一緒に来ないか』なんて言えるわけねーだろ」とぶち切れること。 明らかに無駄でしかないと思える、たったそれだけのことをし...

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