はてなキーワード: 喉頭とは
だから今は1本も吸えなくなりました。
非嫌煙家は異常にタバコ嫌う人がいるのは煙くて健康に悪いからだと思ってるでしょ?
でもね、生きてる人の嫌悪感より癌や火事で死んだ人の祟りってのが結構大きいと思うよ。
もし肺がんで死んだばっかで成仏できてない霊がいたら、受動喫煙の被害者に憑依して「禁煙なのに何で吸ってるんですか?」「タバコやめていただいてよろしいですか?」とか「最近愛煙家の逆切れが激しいですよね」ってな定型文から入って恨みを晴らせれる。
何が言いたいかって言うと、非嫌煙者はファシズムとかバカにするけど、嫌煙家はただ生きてる人の意思だけをもとにタバコを嫌うわけではないんですよってこと。
そして怨霊は供養しましょう。
http://anond.hatelabo.jp/20090504164741
喫煙者攻撃、まして死者への冒涜はもってのほかだが、これだけタバコで早死にしたとしか考えられない著名人が多数出ていて(喉頭がんなんて喫煙者でなければまず罹りませんよ。肺がんよりも遥かに)、それをどうやら心の底から惜しんでいるらしい人たちがいて(俺にはまったくそう見えないんですが)、その人たちがなぜ「タバコを撲滅するべきだ。喫煙者からタバコを取り上げるべきだ」という自分などからすれば当然の発想に行かないのかが不思議でたまらない。筑紫哲也ももうすっかり忘れ去られているんじゃないのか。
形ばかりのお悔やみを言う暇があったら、禁煙運動、反タバコ活動しようぜ。
あと、いわゆるスモーク・ハラスメント、そして受動喫煙「加害」の実例を屈託もなく書く貴方を非難する。俺は全力でその新卒君を支持する。
なお、WHOの推計によれば、20世紀中にすでに1億人が喫煙により亡くなっており、すみやかな対策が行われなければ21世紀中に10億人が死亡する。現在、世界で毎年540万人以上がタバコで亡くなっており、エイズの2.5倍、世界第3位の死因である。近々2位にランクアップすると見られる。これだけの死が単一の原因でもたらされているにもかかわらず、なあなあで済まされてしまっている現状は、新型インフルエンザ(WHOの見立てでは、現状だとパンデミックでも死者200万くらいでしたっけ)なぞよりよっぽどの脅威だ。はっきり言ってパンピーは皆リスク感覚が崩壊している。
最初に言っておこう。
失ったものに対しての取り返しのつかなさを感じるのは、そこから多くの物を得ていたからだ。
愛し合った分、憎み合うように。
すべての物は、そうやって釣り合いを取っている。
父を亡くしたのは、14歳の時だ。
2度目の癌で、1度目は胃で、2度目は喉だった。
告知の是非がまだ争われていた時代、彼は知ることを望み、
一時帰宅のときに、家族の食卓で自分は癌だと、必ず治して帰ってくると、そう告げた。
癌は自分が育つために、宿主もやがて殺してしまう。
部位的なその特徴から、喉頭癌の進行は早い。
正月の一時帰宅を終えて、
(なんとも日本人とは律儀な性格だ。正月は自宅で迎えたいらしい。犯罪者でも、末期の患者でも。)
すぐに目に見えて容態は悪くなった。
口内炎のように見えていた癌は段々と増えて、私たちは怯えた。
皮膚は乾き、黄色くなり、骨と皮だけになっていく自分の肉親を見る機会は何度もあるものではない。
だけど、そんなことは何も珍しいことではない。
ありふれた病気の、ありふれた悲劇。
どんなにひどい事も、どんなに素晴らしい事も、この世の中では起こりうるのだ。
何よりも、見た目以上に思い知らされたのは、人が内側から段々と腐っていくその匂いだ。
甘くすえた、その匂いを今でも覚えている。
今でも、何年かに一度ぐらい、町中でその匂いをさせている人にすれ違うと懐かしく思う。
もうすぐ死にゆく人の、その匂い。
人は自分の信じたいことしか信じない。
そのためには、どんな事象も誤魔化せるのだ。
たとえば、肺に穴をあけて血と膿の混ざった水を吸いだしたり、真っ黒な血を吐いたり、
意識がなくなった父に看護婦が話しかけながら直腸に手を入れて汚物を掻きだしたり、
そんなことを目の当たりにしても、家族は信じるのだ。
「これで悪いものが全部出たから、あとは良くなるだけだ。」と。
廊下に面する個室のドアが閉じられたら、それは隣か、その隣の患者が死んで運ばれるサインだ。
癌病棟の個室は、治療のためのそれというよりも、順番を待つための場所に近い。
不思議なもので、どんなことにでも人間は慣れ、希望を持つことができるのだと思う。
癌病棟でもまた然りだ。
それでも意識を取り戻さない父親の横で、ポパイの「ぼくたちのセックス」特集に夢中になった。
こんなにも悲しいのは、きっと、こんなにも愛されていたからなのだと。
静かに、いつの間にか彼は死んでいた。
母親と弟が仮眠を取っている間に。
わたしが、介護用のベットで7月の雲の流れているのを見ていた間に。
最期には、痰も腹水も出なくなり、人間は乾いて死ぬものなのだと知った。
何のために、あの8か月は必要だったのか。
何でもないと、今ならば思う。
すべては、私たち自身を慰める、その鎮魂の前払いのようなものだったと。
少しずつ、少しずつ、わたしたちは覚悟を重ねてきたのだ。
見たくないものを認めるために。
後悔をしないために。
誰のせいにも、しないために。
すべての物から得ることはある。
どんなに酷いことからも、経験を。
失ったものからは、愛情を。
束縛からは、解放を。
「頭蓋骨が怖いの?自分も一つ持っているのに?」
そうだ。わたしは怖くない。死は既に、自分の中にある。
だから、弟が事故で死んだ時も、私は比較的冷静さを保つことができた。
私はもう、14歳ではなく29歳になっていた。
馬鹿みたいなその死因を聞いた時も、少しだけ安堵した。
事故で良かったと。
それなら誰も憎まないですむ。
大きく腹部を膨らませて、全身の穴から血の混じった体液を流す弟の体を拭き、
検死後にドライアイスを置いていかない警察の不親切を苦々しく思った。
仕方のないことだ。警察は葬儀屋ではないし、五月に死体は長持ちしない。
(いつか覚えておくと役に立つかもしれない。)
2度目の―今度はあまりに突然な―身内の死に途方に暮れながらも、
誰も憎まないでいいことに、少しだけ安堵した。
誰かのせいにすること、
誰かに責任を見つけること、
憎しみを将来に繰り延べることは、
自分を迷路に追い込むだけだ。
死をポケットに入れて。
棺に入れた弟の好きだった詩集は、灰となってなお文庫の形を保ち、火箸で突くと粉となって崩れた。
放蕩の限りを尽くした詩人は80歳を超えても生き長らえ、
20代の、5月の生の盛りに(flower of life)、弟は死んだ。
途方に暮れる母を支え、喪服美人妻を気取り、
火葬場で弟の骨を見た時は、とても申し訳なくて笑うしかなかった。
どこも損なわれていない、こんなに立派で太い骨なのに。
どうしようもないことは、どうしようもないことだと思う自分は、どこかおかしいのだろうか。
弟の婚約者は、ショックで髪の毛が抜けてしまった。
私は、釣り合いをとるために、手放すことを選んだのだ。
それが自分のバランスを取るために、丁度良かったからだ。
今でも、ふと思う。
自分の中の死を。
自分の周りの死者を。
どうしようもない、役割とか、病とか、不正とか、エゴのことを。
昼間の汗や尿と同じように、夜中の暖かい布団の中で流す涙のことを。
何かを失ったと思っている人へ。
何の慰めにも為らないかもしれないが、それは間違いだ。
失った分、同じ大きさの何かを得ている。
何かを失ったと感じたのであれば、それは既に、それだけのものをあなたが受け取っていたからだ。
得たもの、それが憎しみならば、手放してしまえばいい。
あるいはその痛みは、あなたとあなたの亡くしたものだけで組成されたものだ。
それならば、誰にも渡さずに、自分のものだけにしてしまおう。
それから数年して、私は妊娠した。
まだ生物とも呼べないような、たった8ミリの物体の写真を見て、少しだけ、泣いた。
大きな喜びと、大きな喪失の両方の可能性を持ったものを、私は孕んでしまった。
愛と呼べるような感情は、まだわからない。
だけれど、ともに時間を過ごし、それを失った時に、
わたしは自分を壊さずにいられるだろうか。
死は、私の中にもセットされている。
その事を怖いとは思わないが、少しだけ、祈るような気持ちになる。
どうか、どうか、私が愛する人たちに、沢山の何かを与えることができますように。
釣合いなんて、とれていなくていいから、
たくさんの、―できれば喜びを―、残すことができますように。
あまりの陳腐さに自分で笑って、また少し、泣いた。