はてなキーワード: はにわとは
他人に期待しすぎないというのは自分の心の平穏を保つためには良いことだ思います。
自分が他人に何かをやったとしても、相手から返ってくるのは難しいと理解し、自分を犠牲にせず自分のできる範囲で他人にすることをやればよいからです。
必要がないのに他人のために自分を犠牲にする必要はありません。
言い訳は止めましょう。
誰かに何かをしてあげる、見返りを期待するという打算的な意識が働く時点で考えが幼稚です。
人から何かしてもらう場合に、それが仕事などにおいて貴方に関連する重要な事柄であれば人をアテにせずに動けばいいというだけの話。
他者との関わりにおいて自分を犠牲といった言葉が出てくるのであれば、今後一切の他者との接触を断って山奥で暮らしましょう。
話を聞いてみるのも頻度が酷すぎると相手に困惑されます。
自分が敏感すぎるとわかっているなら、ある程度のレベルまでは保留することも必要です。
50%が適切な程度なのかは状況によって違うのでなんともいけませんが、相手や状況によっても変更する必要があります。また、気づきが必要な場面ではその能力を存分に発揮してください。
言い訳はやめましょう。
恐らく貴方は50%と言わず、その殆どの情報をシャットアウトして殻に篭もっているだけです。
何から何まで首を突っ込むのはただのでしゃばりでしかありません。
というよりも、まずは人の言葉を極端に捉える癖をなんとかしたほうがいいかもしれません。
貴方の場合、相手に困惑されるのはそういった部分かもしれませんよ?
遠慮は必要ですが、あまり遠慮しすぎることはありません。
必要な意見をいわずに黙ることが礼儀ではありませんし、貴方が意見をいうことによって逆に相手が助かるケースもあるのです。
不当な要求は問題ですが、丁寧にお願いする程度ならば要求を押し付けてるわけではありません。
頻繁になりすぎると問題ですが、相手に迷惑をかけず自分に有益なことならば、たまには黙って我慢せずに言っも良いと思います。
言い訳はやめましょう。
サービスを受ける時点であちらから出されるものがそのサービスの全てです。
貴方の意見や要求が必要であったり、受ける余地あればあちらから聞かれるでしょう。
必要な意見と思ってそれ以外を貴方から伝えるのはあなたの都合でしかありません。
それを相手に伝える事は失礼にはあたりませんが、そもそも元の内容自体、貴方の言っているそのままのことしか書いてありません。
同意できる部分は同意できる、でいいはずなのに、無理矢理反論しようとしているようにしか見えません。
怒るとはっきり意見をいうのは違います。
感情任せに怒鳴り散らすのは駄目ですが、はっきり物をいうのは程度にもよりますが必要なケースもあります。それを怒るとはいいません。
ただ、人は理屈だけでは納得できません。
言い方やタイミング、一回に話す発言の量にも気をつけないといけませんし、相手の理解度や状態をきちんと考慮する必要があります。
相手の意見を真っ向から叩き潰すような形になると、たとえ自分が正しくても意固地になって反論されるのはよくあるケースです。
論理的に言うことは非常に大事ですが、物事には絶対正しい決まった何かがあるわけではないので、それだけではうまくいかないケースもあると思います。
相手の感情に配慮するのは必要なことです。
もちろん、自分が怒って相手の心を傷つけてしまうことは可能な限り避けなければならないと思います。お互いに後味が悪いと思いますし。
上と同じです。
元の記事にも貴方の言っていることと同じ内容しか書いていません。
同意するのであればその旨を一文加えるだけで印象は違うでしょう。
あなた自身がこれらを「反論ぽくなってしまうけれど」と感じているのはそのあたりです。
自分で自分の意見を伝える時の形に納得できていないのならば、推敲しましょう。
愚痴などネガティブな発言や他人を貶める発言などは、素直に信じないという態度をとるのも良いですが、人それぞれ立場があり、同じ現象でも、ある人の立場から見た場合と、別の人の立場からみた場合、真実は二つあると思っていると楽かもしれません。
人と会話するのに一番怖いのはにわか読心術病に陥ることだと思います。自分の経験に基づく判断は確かに有用ですが、それを過信してしまうとミスしてしまいます。
総じて言い訳か元の記事と同じ内容の繰り返しでしかありません。
反論っぽくなってしまうけれど。
予防線を張る、という部分は間違っていませんが、考え方が幼稚です。
人に何かしてもらうことを当然のように思っている部分がありませんか?
アテと褌は向こうから外れる、というのは昔から言われている当然のこと。
人に何かしてもらう、してもらえるという意識にまず甘えが過ぎます。
人をアテにするのではなく、貴方がまず動きましょう。
場合によっては貴方が人に何かしてもらえるだけの人間かどうか、考えてみることも大事かもしれません。
他人に期待しすぎないというのは自分の心の平穏を保つためには良いことだ思います。
自分が他人に何かをやったとしても、相手から返ってくるのは難しいと理解し、自分を犠牲にせず自分のできる範囲で他人にすることをやればよいからです。
必要がないのに他人のために自分を犠牲にする必要はありません。
リスクマネージメントという部分では間違っていませんが、考え方が幼稚です。
まず話を聞いてみましょう。
それが貴方の手に負えそうにない内容だったら、そこで適していると思える人に話を振ればいいのです。
言われた事だけやっているようでは、他者の評価も上がりません。
興味のある事にしか首を突っ込まなくていいのは学生だけです。
もしかしたら周りの人が色々言っているのは貴方自身のことかもしれませんね。
話を聞いてみるのも頻度が酷すぎると相手に困惑されます。
自分が敏感すぎるとわかっているなら、ある程度のレベルまでは保留することも必要です。
50%が適切な程度なのかは状況によって違うのでなんともいけませんが、相手や状況によっても変更する必要があります。また、気づきが必要な場面ではその能力を存分に発揮してください。
言っても構いませんが、あくまでお願いの域を出てはいけません。
どのようなサービスにも基本的な流れ、基本サービスというものがあります。
貴方が要求しようとしているのは無償のオプションサービスです。
礼儀を欠くというのは相手の立場を考えず、一方的な要求を突きつけることも含みます。
遠慮は必要ですが、あまり遠慮しすぎることはありません。
必要な意見をいわずに黙ることが礼儀ではありませんし、貴方が意見をいうことによって逆に相手が助かるケースもあるのです。
不当な要求は問題ですが、丁寧にお願いする程度ならば要求を押し付けてるわけではありません。
頻繁になりすぎると問題ですが、相手に迷惑をかけず自分に有益なことならば、たまには黙って我慢せずに言っも良いと思います。
あなたはそれをワガママだと表現するのかもしれませんが、ワガママではありませんよ。
「怒る」というのはただの感情で、感情を表に出して主張することが許されるのは子供だけです。
感情だけでは人を納得させることなどできません。
言葉に説得力を持たせたいのならば、感情ベースではなく、論理ベースで発言しましょう。
感情は論理のスパイスであって、論理を感情のスパイスにするのは論外です。
怒るとはっきり意見をいうのは違います。
感情任せに怒鳴り散らすのは駄目ですが、はっきり物をいうのは程度にもよりますが必要なケースもあります。それを怒るとはいいません。
ただ、人は理屈だけでは納得できません。
言い方やタイミング、一回に話す発言の量にも気をつけないといけませんし、相手の理解度や状態をきちんと考慮する必要があります。
相手の意見を真っ向から叩き潰すような形になると、たとえ自分が正しくても意固地になって反論されるのはよくあるケースです。
論理的に言うことは非常に大事ですが、物事には絶対正しい決まった何かがあるわけではないので、それだけではうまくいかないケースもあると思います。
相手の感情に配慮するのは必要なことです。
もちろん、自分が怒って相手の心を傷つけてしまうことは可能な限り避けなければならないと思います。お互いに後味が悪いと思いますし。
人の話を聞く態度ではありません。
本音と建前、社交辞令、というものはあります。
相手が共感など、何らかの反応を求めているのか、解決策を求めているのかは話の流れで分かるはずです。
いい加減な応対をする人は信用されません。
相手をするのが面倒な人、手を離せない状況であるのなら、流すのではなく、話をやんわりと打ち切ったり、別の話題に持っていけるようになりましょう。
愚痴などネガティブな発言や他人を貶める発言などは、素直に信じないという態度をとるのも良いですが、人それぞれ立場があり、同じ現象でも、ある人の立場から見た場合と、別の人の立場からみた場合、真実は二つあると思っていると楽かもしれません。
人と会話するのに一番怖いのはにわか読心術病に陥ることだと思います。自分の経験に基づく判断は確かに有用ですが、それを過信してしまうとミスしてしまいます。
以上、参考になれば幸いということで。
ちょっと補足。
彼はもともと工業デザイナーだったからパースとか立体感覚に優れているのであって、要するに訓練の賜物だよ。逆に言えば、同じアプローチをすれば誰でもあの高みに至る可能性はある。あと、鳥山明にだって苦手意識はあった。本人が語っていたところなのだが、女性を描くのが不得意だと(あれで苦手とはにわかに信じがたいが、初期のタッチを見るとなんとなくわからないでもない)。ブルマなど相当苦労したそうだ。その点ではボーボボとかこち亀の作者なんかと変わらない。
でも、鳥山風の絵を描くマンガ家ってほとんどいないでしょ。パプワ君はわざとだし。
「ほとんどいない」には語弊があって、実際は「鳥山風」で一蹴されてしまうため日の目を見ないというほうが正確。それくらい鳥山明はパイを食ってしまっていると言うことだ。これは想像だが、「何を描いても劣化鳥山になってしまう」と漫画の道を諦めた若き才能が日本にはゴマンというのではないだろうか。ちなみに現役商業誌連載陣でも鳥山風のキャラと世界観を使いこなしている作家ならいるよ。弐篠重太郎とか。
まあ要するに鳥山明はいま神格化されすぎているってことだ。神の道へと至る実力と運を持っていたことは全く否定する気はないけども。私は鳥山明はベタなパロディと「ヒーロー的なもの」の風刺の権化だと思っているし、アメリカンなポップアートを日本風に消化したビビッドな画風が神髄だと思っているので、現状は残念でならない。
しかし考えてみて欲しい。恋愛感情が生殖に密接に関係している以上、その嗜好もまた生殖欲求に影響されるのではないだろうか。すなわち、性的に最も栄えある時期、一般には二十歳程度といわれているその時期の相手に対し、最も魅力を覚えやすいのではないだろうか。特に、それが男である場合には(女の場合、哺乳類である以上ある一定の保護が必要であるから、若いだけでは評価されにくいかもしれない)。
ところで、朝方ちょっと近所をぶらぶらとしていたら、ご近所の娘さん(十五、六くらい?)に挨拶された。事務的なものを除いては五、六年ぶりに挨拶されたので、キョドってしまって挨拶を返せなかったのだけれど、まあそれはいいとして。私の記憶では、つい最近まで、夕暮れ時に住宅街の路上に、如雨露で水掛けて絵を描いたりなどしていた、年の離れた小っこい小っこい小娘(小娘だなんて失礼だと感じたらシャオニャンと読んでね)だったのに、帰るのが遅くなってちょっとの間見ないでいる内に、肌を小麦色に焼いた、優しい目をした立派な娘さんになっちゃって、目が合ったとき、私にも分け隔てず接してくれた同窓生の子が、その時の姿のまま現れたように感じてしまって……そんなのを見ると、ああ、まだまだ若いつもりだったけれども、ずいぶんと歳を取ったのだなあと思ってしまった。それと共に驚いたのは、前にはあれほど年が離れていると感じていたのに、その娘さんを見たとき、少し歳下なだけの娘さんを見たように感じた……というと言い過ぎかもしれないけれども、知らず知らず自分で築き上げてしまっていた歳の壁が、その時崩れたというか、小娘として見ることが出来なかった。あのまま長く接していたら、もしかしたら心惹かれていたかも知れないし、ありえない仮定としては、抱けと言われれば……童貞だから知らないし、無理だけれど……その気は起きるのは確実だった。それで、冷静さを失って、挨拶も返せずに、逃げるように彼女の横を急ぎ足で素通りしてしまった。
ああそう言えば、成人式の日。同年代の女どもはもはや知った顔とはかけ離れていて、殆ど誰が誰だか判らなかった。知らないケバいお姉さんたちを見ているようで、私は内心恐かったし、自分が場違いな存在である気がして落ち着かなかった。旧友が結婚したと聞いたときも、私は男友達とじゃれあってばかりいて、恋人などいなかった(今も継続中だけれど)から、ちょっとした衝撃を受けたっけ。まだまだ心は少年気分で、エロ漫画など読んでは、下半身を反応させるばかりでなく、背徳的な羞恥心に顔を紅潮させていたのに、そんな自分と同年代で、大人としての道を歩み出したやつがいるというのはにわかに信じられなくて……結局、式にも出なかった。そんな衝撃を、私はあの娘さんに出くわすまで忘れていたのかもしれない。
共に老いさらばえていく妻や女友達を持たない男、そうした男しか友人を持たない男は、知らず知らずのうちにロリコンと化しているのかもしれない。