信じる人には、必ず疑いがあるからだ。例えば「父は男だと信じている」という子供はいない。一緒に風呂に入って知っているからだ。火傷をした人が、「火は熱いと信じている」とも言わない。熱いとハッキリしているからである。確かに世間では、信じる人は、疑っていないというのが常識だろう。しかし、疑う余地がないことは「信じる」とは言わないで、「知っている」という。信じる人には、実は疑心があるからである。
信じる人には、必ず疑いがあるからだ。
例えば「父は男だと信じている」という子供はいない。
一緒に風呂に入って知っているからだ。
火傷をした人が、「火は熱いと信じている」とも言わない。
熱いとハッキリしているからである。
確かに世間では、信じる人は、疑っていないというのが常識だろう。
しかし、疑う余地がないことは「信じる」とは言わないで、「知っている」という。
信じる人には、実は疑心があるからである。
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https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20181101oujyouwoshinjite.htm 「往生をば遂ぐるなりと信じて」とあるから、死んだら極楽へ往けると信じることだと思うだろう。だがそれは誤りである。 なぜなら...