自覚してくれよな→男傷つく→女って恐いよな→女傷つく→(※繰り返し)
ブスとかデブの場合でも女としてみる奴もいるし、そうでないやつは、人間としてもみないじゃん、男って。酷いよねー。最低。これなんかの罪にすればいいのにな。ていうか、男ってなんであんなに自分を棚上げできるんだろか。なんであんなに自己評価が無駄に高いのだろうか。全然頭も悪くて馬鹿で背も低くて顔も悪くてまともなコミュニケーションもできなくてただ女とみればチンコおったててるだけなのになんで自信持ってるのかなこの人、ってな人多いよー。もうちょっと男は自分の酷さを鏡見て自覚してくれよな。
いくら東大の数学科で、仮にスターリングの公式を使えたとしても、突然見せられた問題に対して5秒でそれだけの暗算をするのは無理。
しかもカメラが向けられている状態の中で問題を解かされるという状況は、なかなか厳しい物があるんじゃないかと。
それこそ、数学オリンピックの為に日夜特別に練習を積んでいるような人たちでもないと無理じゃないの?
男なんて手のひらの上で転がすくらいにしとけって。度量が狭い。
いや、男はブスでも女と見るよ
生物学の、特に動物の行動に関するものを知ることを優先した方が良いような気がする。そうじゃないと、問題の所在が本当に社会にあるのか、もっと根本的なところにあるのかがわからなくなっちゃうんじゃないかな。
たとえば
というのは、社会が作り出したってことはわかるけれども、それが雄の本能的な行動とマッチしているのか(もともと基盤は存在したのか?)、そうでないのかはわからない。声を出して何らかのコミュニケーションを取るのは多くの生物に見られるし、それは人間もまた然りだけれども、実際にコミュニケーションに用いられている言葉というものは文化的な代物として語られるように、社会行動の中にも原始的行動が見られたりするし。
「ヴィレッジヴァンガードに入るとつい舌打ちしてしまう」コミュニティとかどうでしょうか。
今、僕は荒井君のようになりたい。
当時の僕は非常に外交的で、成績もかなり良い方で、部活動も楽しく、毎日が充実していた。
一方の荒井君はあまり成績も冴えなくてとても地味な奴で、正直言って、彼とはあまり話したこともなかった。
当時は、荒井君に対して「こんな地味では楽しくない。ああはなりたくない」と思っていた。
だけど、今にして思うと、あんなに冴えない奴でも、赤点連発の数学の試験で赤点を取ったのを見たことがないし、地獄の体育の授業にも音を上げずについてきたし、音楽でやらされた歌の発表もそれほど酷かったわけでもなかった。聞くところによれば、彼女もいたらしい。
非常に内向的で、成績もぱっとせず、サークル活動などやらず、毎日が寂しい有様だ。
まるで僕が荒井君だ。
だけど、荒井君と違って僕は偏屈な課題にはすぐ音を上げるし、単位はよく落とすし、実験もへたくそなまま上達しない。彼女もいない。
こんな地味で駄目な奴ではいたくない。もっと派手になって周りから注目されたい。
昔を思い出してそんな風によく思うんだけど、それは間違いだなと思う。
派手に生きる必要はない。荒井君でいい、いや、荒井君のようにあるべきじゃないかと。
僕も荒井君のように、地味でもとにかく何でも必死に取り組みたい。
僕は荒井君になりたい。
※迫真性を増すためにリアルで実名だが、彼も僕もまず特定されないのでよいかと思う。
ハァ?受け入れないと出来ないのか?甘えてんじゃねーよ。そんなもん自分で一人でしこっとけ。自分のケツくらい自分で拭け。
ある集団に対し最大公約数的にイメージを定め、そのイメージで語ってしまうという事が往々にして起こるけれども、あくまでそれは「最大公約数的イメージ」に過ぎなく(まあつまりステレオタイプというのか?ちょっと違うか?)、寧ろそのまんまが当てはまる人の方が少ないがゆえに、話しているうちに「で、そんな人どこにいるわけ?」みたいな事になりがち
その最大公約数的イメージを作り出してる一つの要素要素の単位では当てはまる人もいるのだろうが、それが全て集まったイメージに該当する人というのはたいていの場合ほとんどいない。だが話し合うときはそのイメージで話し合おうとするから、どんどん現実と乖離する。
更に酷い場合には、そもそもその最大公約数的イメージを作り上げる集団(これから対象について話し合うひとたち)の視点にかなり偏りがある場合もある。その場合はまず、最大公約数的イメージを作り上げる要素の選出からして偏っているためにイメージも偏る(だが、似たような人たちが集まる為、寧ろその人たちにとってはうまくまとまってしまう。同じような偏りを持つ人間が集まるので偏りに気付かない)。更に、その偏った最大公約数的イメージそのもので、対象を語ろうとする。更に偏る。非モテの語る女性観などがコレにあたる。
ある集団、あるカテゴリに属する人物について語るとき、客観的にそれらを捉えるなど有り得なく、結局は我々は実際に出会った数人の人物を想定して話しているに過ぎない。例えば男女で言えば、結局は「俺/私の周りの男/女は」という事に過ぎなく、それを超えられない。もっと酷い場合、「実際に出会っても居ないのに」語る場合も有り得る。テレビで見たそういう集団のイメージ、雑誌で見たそれ、漫画で見たそれ、などなど。そして、そんな、テレビ・雑誌等のイメージで語ってしまう本人は、それを「大体合ってるから問題ない」と実際に出会ってもいないのにそう思い込んでいる。
キテレツって長い間やってたから細かい描写が結構違ってたりする。
みよちゃんはブタゴリラを「熊田くん」って呼んでた時があったし(いつ頃なのかはよく覚えてない)、
「薫」と呼ばれることについても初期にちょっと使っただけじゃないかな?熊八に「薫!…だラッシャイ!」とか言われるとき別に嫌そうな顔しないし。「ネギ坊主」に関しては割と気にしてるような描写が後まであった気がするけど。
はにゃーん。
http://anond.hatelabo.jp/20070605164307
同性のみより異性交えた方が仕事の能率が上がる、ってどっかの人が実験してたような気が。あと老婆心ながら。男子の欲望自体も欲望の三角形で社会的に作り出されたものなので「生物的に云々」とかの戯言は控えた方が吉。つまり個人を敵視するのはやめなさいねー。という。
まなざされる性っつーねー。問題はデカいよ。
「サロペット」言います。概念自体は同じだが仏語。salopette。アクサンが付くかは知らん。
ちなみに。その観察眼はなかなかだと思うが、実は前から流行ってる。一昨年ぐらいにメディアに取り上げられはじめて、去年の夏に第1次ブーム。んで今年あたりはかなりコモディティ化して、値段もデザインも豊富になってきた。主流は胸当て部分が胸まで届かなくて、足はホットパンツ風の。まあ子供用をサスペンダだけ伸ばして着てると思えばよろし。
しかし、なんで元はあんな暑苦しいものが夏のアイテム化したのかが不思議。
罪悪感に意味があるのか、
作り上げていく事に意味があるのか結局どっちなんだ?
ジグソーパズルは、別に、作り上げることに罪悪感など感じないから例として不適切じゃね?