ネットでは在日差別ばかりが取り沙汰されるが、他にも同様の差別はあるんだよ。それに多くの人間は無意識に関わっているのであり、どれかをNOというならすべてにNOと言える態度が当然求められる。逆に言えば、これは差別だけどこっちは差別じゃない、というのは絶対にあってはならない。考え方の多様性は自己矛盾を保証するものではないからだ。
差別はたいていが各々のレベルで定義される閉じた共同体において、その構成員が予め備えているとされる資質(それは大抵が曖昧であるが、「ふつう」「常識」とするものが多い)を欠いた者に対して行われるケースが多い。
差別は、
などに分類されよう。差別とは「区別と序列」が前提にあるのは明白である。自分が他人と同じなのか、違うのか、また上なのか、下なのか、を認識してそれに見合った振る舞いをすることは、社会では必須のスキルである。
たとえば、自分と同じ共同体で、自分より上だ、と思う人には正の差別を、下だ、と思う人には負の差別を行う。しかしながら自分と異なる共同体の場合はそうとは限らない。人類が考える最大の共同体は、今のところ地球であるから、異なる国家を超えて評価されている人物は、人類、地球という枠組みで評価されていると言ってよい。逆に言えば、自分と思想が相容れない共同体の牽引者は、立場が上でも強烈に批難することがある、ということだ。
それに見合った振る舞い、というのは同調圧力と換言できる。共同体の中の役割を演じることで、共同体の他の人から承認されるのである。それをしないものは共同体内の自浄力によって排除されるだろう。これを村八分、いじめ、叩きという。
差別を糾弾したからと言って、逆差別の正当性が保障されるわけではないことを意識する必要がある。一度差別されたから、と差別し返すのは何も許された話ではなく、同じ穴の狢に身を落とすことにほかならないことを、理解する必要がある。
また、ネット上では多くの情報が行き交い、個人レベルでの情報処理能力が問われることになる。そこで、一部はレッテル貼りをすることで対象を矮小化し、処理しやすくしているようである。もちろんそれは処理された側からすれば不当なものにされる可能性が多くあることは言うまでもない。
http://anond.hatelabo.jp/20100827125705 http://anond.hatelabo.jp/20100827171610
まずいとこ突っ込まれるとツバや捨て台詞吐くだけで説明しない、 っつーのはそれらのエントリで批判されてる人々と全く同じ振る舞いだね