はてなキーワード: ネット上ではとは
1.加害妄想について
加害妄想とは、自分が相手に不利益を与えてしまう・しまったという妄想だ
言葉による暴力、振る舞いによる加害、自己臭や自己造形とうの不快なものを与えてしまうという迷惑
「こんなことをしたら嫌われてしまう」「こんなことをしてしまったから、きっと不愉快に思われている」
一種の自意識過剰だ
それと同時に、過剰なそれは対人恐怖をも招くことになるだろう
加害妄想を持つがゆえに、人に接する時の自我をとにかく綺麗にしようとするのだ
誠実で、正直で、優しく、思いやりがあり、等々
そして、自分の素の部分を隠して接していく
そうした人ばかりだから、表面上だけをなぞるような人間関係が氾濫する
3.加害妄想を持つ人の原因と結果について
では、そうした人達はどの様な形で人と関わる欲求を解消しているのだろうか
Twitterやmixi、ニコニコ動画や掲示板、モバゲーはてなといったSNS的なもののことだ
それと同時に、サービスから離れることで緊張化した人間関係を破棄することが可能だからである
この2つを利用し、時として自分を守り、時として対人接触欲求を満たすことが出来る
ここにおける問題は、「人間関係全てをネット上だけで賄えない」という事である
そして、目の前に相手が居るような直接的な人間関係において必要な対人スキルはネット上の人間関係では育まれない
なぜなら、ネット上では理想的に振る舞え、逃げる事が可能だからだ
そうした環境であれば、互いの主張や要求の対立が生じる事は少なく、生じても逃げることで回避する事が出来てしまう
相手に踏み込む経験の少なさによって、相手に踏み込む事への不安が発生する
その不安を正当化するために、「自分は相手を不快にさせてしまうから踏み込まない」という加害妄想が発生する
もちろん、実際に不快にさせてしまった=加害してしまった事はあったのかも知れない
しかし、そうした経験がなければそもそも相手との距離感の測り方は、対人スキルは育たないのだ
4.終わりに
ここは本筋とは関係ないが
名家に生まれた彼女は生まれつき大人に囲まれて過ごすことになる
それにより、幼い頃から礼を尽くす事を強いられ、他人に踏み込むという経験が欠如する
また同時に、名家ゆえの敵の多さから自分を守るために悪態を吐く事で距離を空ける行為を繰り返す
そうした自分を恥じて、「人と真っ当に関われるようになるまでは一人でいる」と実家を出て集合住宅で一人暮らしを始める
そこで、夏目残夏という人物に「人と真っ当に関れるようになるには、他人の中で傷ついたり傷つけたりする必要がある」と指摘される
努力していないデブスであってもネットに書き込むだけでたくさんメールが来る
プロフィールは適当でも構わないし、男なら明らかに着そうにないプロフィールでもメールが来る
一方、男はデブス相手でもモテるための努力をしないとセックスすることすらできない
雰囲気イケメンになれるようにおしゃれをし、表情筋を鍛え、運動をしないとデブスですら見向きもしない
女に振り向いてもらえるようにお金を稼ぎプロフィールを充実させる必要だってある
しかも、それだけでなく、デブス相手であっても楽しませるように努力をしないとメールの段階で「はい。さよなら」となることすらある
とはいえあまりにデブな女性だと出会う段階で断られることがあるので、やせる努力というのは必要かもしれない
でも、それは大多数の痩せている女性にとっては関係のない話だ
hydeの身長は161cmだとhyde自ら公言しているんだけど、何故かネット上では156cmという事になってて、しかも事実との相違に対して特に異を唱える人をあまり見かけない。
「どっちでも別にいいじゃん」みたいな状況がずーっと放置されてる状態。真偽ではなく、ネタとして楽しめるかどうかが優先されてしまっている状態。
ミュージシャンの身長が通説と実態で何センチかずれていても大した弊害は無いだろうけど、そうではない大事な事柄との境界線は非常に曖昧だ。
「別にいいじゃん」と無頓着な人は、いつか自身にとって真偽が重要な事柄に直面しても「別にいいじゃん」と周囲から相手にされず、取り返しのつかない事になるのだろう。
多分、今現在取り返しのつかない事になってる様々な事柄も、大勢が真偽に無頓着なまま放置された結果だったりするのかも知れない。
この度行定勲監督・吹石一恵主演で映画化が決定した『ゲーセンで出会った不思議な子の話』。だが、書籍化・映画化が決定しても、このストーリーの書き手は決して名乗り出ることなく、ネット上ではこのストーリーに対し、様々な点から疑いが提出され、果ては低迷するアーケードゲーム業界によるステルスマーケティングではないかという説まで浮上している。
私は、ある裏情報筋から、このストーリーの書き手のIPアドレスを入手した。そして、エヌ県エフ市というある郊外の市から書きこまれた、という所まで書き手の所在を特定し、早速現地に向かった。
まず私はその街にゲームセンターがないかを探した。すると、今はもうないが、かつて「UTOPIA」というゲームセンターがその地にあったことが、分かり、そのゲームセンターに昔よく行っていた男性に話を聞くことが出来た。彼に、いつも帽子を被り、格闘ゲームをやっていた女性に心当たりはないか聞くと、彼はこう言った。
「あーあの女か!あいつはひどい女だったよ。なんだい、お前もあの女に騙された口なのかい?」
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その男性によれば、帽子をかぶり、奇妙な振る舞いをする女性は確かにいたという。だが、そのような女性を男性が放っておくはずもなく、彼女の周りは常に男性で囲まれていたという。
「あなたも囲んでいた一人だったんですか?」
その女性は機会があればあらゆる男性にアプローチをかけていた。例えばふたりきりで居る時に急に泣き出して見せ、理由を聞くと、自分は家庭で居場所がなく、そのためこのゲーセンに入り浸っているのだと言ってみたり、あるいは「あなただけに打ち明ける秘密」として、自分は不治の病であり、もう長くはないのだと言ったり。そのようなアプローチに非モテ童貞が転ばないわけがなく、彼女がゲーセンで囲んでいた男性の一人を連れてラブホテルに行く姿も、度々目撃されていた。
当然、そんなことをしていれば人間関係はめちゃくちゃになる。その女性をめぐってのいざこざがそのゲームセンターでは日常茶飯事のこととなり、ゲームセンターの治安は悪化、客足は遠のいた。そのゲームセンターが潰れた理由の一端は、あの女にあるんだよ!と、男性は語気を強めて言った。
だが、ゲームセンターが潰れたことにより、そのただれた人間関係も自然に瓦解した。そして、時間の経過により、いつしか囲んでいた男同士の間で、「同じ女を追いかけた者同士」という仲間感が生まれ、今では良い飲み友達になっているという。
「まぁこんな郊外の狭い人間関係の中じゃあ、いつまでもいがみ合っていても仕方ないからな!同じ穴を共有した者どうし、まぁ兄弟みたいな関係なのよ。がはははは!」
正直、このようなホモソーシャルは私にとってはとても気持ち悪かったが、それはともかく、私はその「兄弟」にも話を聞いた。しかし話を聞けば聞くほどに、その女性は、掲示板で語られたような可憐で無垢なキャラクターとは異なる存在に思えた。しかし一方で、その容姿や、外から見た雰囲気は、驚くほどあの掲示板で語られた内容と一致しており、そのことが私を困惑させた。
その女性は、今どこでどうしているのかを、なにか情報を持っていないか聞くと、彼らは口を揃えてこう言った。
「いや、全然知らねぇ。そういやあいつはどこ行ったんだろうなぁ……」
調査はここで行き詰まった。
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あの「不思議な子」は今どこで、何をしているのか。手がかりを知るために、私はその街で聞きこみを開始した。すると、ある女性教諭が、彼女の行方を知っているかもしれないというので、私はその女性教諭に話を聞きに行った。
その女性教諭は、今は教師を辞めていた。彼女に、帽子をかぶった、「不思議な子」の行方を知りませんかと聞くと、彼女はこう言った。
「あいつは、死んだよ」
その女性は、元々彼女の教え子であった。そして、卒業後も頻繁に会っていたそうだ。その関係が、教え子と教師の関係どころか、友情を超えた親密なものであったことは、その女性について語る言葉の端々から見て取れた。
女性はとても不安定な人間だった。とても自己中心的であるように見えて、実はとても繊細で、誰かから嫌われていることが分かると半狂乱になり、彼女に怒鳴り散らしたという。「あの子はね、誰にも同じように好かれたかったんだよ。とっても、弱い子だったからさ。」そう彼女は言った。
そして、ある日、女性はある男にこう言われた。「お前みたいなビッチ!死んでしまえ!」と。
「次の日、この街の外れの崖から、あいつは飛び降りたんだよ。」
女性は飛び降りる前に、彼女にだけ電話を掛けた。その内容は、自分を悪しざまに罵った男性の罵詈雑言であった。いつものことだったので、彼女が受け流していると、彼女は最後にこう言った。
『結局、セカイは、あたしのことが嫌いなんだよ』
「私は、あの子の『セカイ』にはなれなかったのさ、結局。」
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私は、彼女から、その女性が飛び降りた場所を聞き出し、そこに出かけた。掲示板に書かれたストーリーの書き手がどんな奴なのか、それはもう、私の関心からは外れていた。どうせ、最初に話を聞いたような連中が、面白がって掲示板に投稿した話なんだろうと、そんなふうに思っていた。
そして、市の外れの崖に行こうとした時、私は一人の青年が、私の前を歩いていることに気づいた。その青年の手には、あの、トルコキキョウがあった。
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「ええ、私があのお話を書いたんです。この下で眠るあの子に、何か物語を捧げようとね……」
青年もまた、あのゲームセンターの常連の一人だった。ただ、青年は、女性を取り囲む男どもの輪の中には入れなかった。遠くから、その女性を見つめていたけれど、声をかける度胸はなかったのだ。
ただ、一回だけ青年と女性は、会話をした。喫煙所で、その女性に話しかけられたのだ。にっこり笑いながら、「君は、格ゲーはやらないの?」と。
「今思えば、ずーっと見つめられていたことに、気づいてたんでしょうね(笑)」
青年が「格ゲーはやらない」と答えると、彼女は格闘ゲームのことを沢山語った。ストリートファイター4というゲームのさくらというキャラクターが可愛いとか、そんな話を。
「ただ自分は、正直憧れの子に話しかけられたことで頭がいっぱいで、彼女が話す内容は全然頭の中に入ってこなかったんですがね」
そして、一方的に色々なことを話しかけられて、最後に彼女はこう言った。「一回で知りたいこと全部知れるほど、簡単じゃないよ~」と。
「でも結局、私が彼女と話せたのはその一回きり。そのあとすぐ、そのゲームセンターは潰れてしまって……」
そして青年は、その女性の思い出を抱えたまま暮らしていたある日、ある女性が、崖から飛び降りたということを耳にする。そして調べていくと、その女性は、あの憧れの子であったことを知った。
「それが分かると、居ても立っても居られなくなって、そして、気づいたらあの物語を書き上げ、掲示板に投稿していたんです。」
そしてその物語によって、青年は彼女をこの汚れたセカイから救い出し、自分との、「永遠の愛」の中に、匿ったのだ。
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気づけば、話すこともなくなり、私と青年は無言のまま海の向こうを見つめていた。
この話を発表すれば、この青年の「永遠の愛」は破壊され、セカイにあふれる汚らしいゴシップネタとして消費されるだろう。だが、私はそういうことをしなければならない職業だ。だからしょうがないんだ……と、私は一人自己憐憫に浸っていた。
そんな時だった。海の向こうから、「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ」という音が聞こえてきたのは。
「一体なんだ!?」と思い、私と青年が海の向こうを眺めると、そこには
クジラの上に、キャスケット帽をかぶった、ショートヘアーの、吹石一恵によく似た女性が、立っていた。
クジラは猛スピードでこっちに向かい、崖に突っ込んだ。あの子は空に向かって羽ばたき、そして、青年の胸に飛び込んだ。そして、彼女はこう言った。
彼女「ずっと待ってたんだよ、あなたが、私のことを呼んでくれるのを」
青年「え、それっとどういう……」
彼女「鈍感だなぁ君は。」
彼女「わたしは、ずっと君が、わたしを好きだって言ってくれるの、待ってたんだよ。」
彼女「でもひどいなぁ、私のこと、物語の中とは言え、殺しちゃうなんて。そんなに薄幸美少女が萌えなのかい?この~」
青年は呆気に取られたようだったが、しばらくすると、何が起きているのかに気づき、そして、まるでこどものようにわんわんと泣き出した。そう、悔し涙ではなく、嬉し涙を。
彼女「君は、絵を描くのが好きとかいう風に書いてたけど、それは本当?」
青年「いや、絵は全然描けないwコピックマルチライナーっていうのを見かけて、その言葉の響きが良くて、つい使っちゃったw」
彼女「そっかー。わたしも絵は全然描けないよw格ゲーはどうだい!」
彼女「よーし、私が特訓してやろー。お姉さんに任せなさーい! 」
もう、私がここに居ることはお邪魔だろう。そう、物語の結末はいつだってこうあるべきなんだ。
あ、そういえば一つ言い忘れたことがあったことがあったっけ。それを言っておかなきゃ。
俺「トルコキキョウの花言葉はね、永遠の愛なんかじゃないんだよ。
希望 さ。」
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、Permalink | トラックバック(0) | 04:44
箒でゲロ掃除してる駅員に、こっちに飛ばすなと叱って謝らせてるオッサンを見てしまった。
他の乗客がしているように、お前が避けりゃいいものを。駅員が反論できないのを見越してか、わざわざ当り散らして。嫌なもんだ。
朝の山手線では毎日といっていいほどオッサン同士の言い争いが起きている。
台風でダイヤが乱れたときに駅員に恫喝していたオッサンもいた。
人身事故があったときもそう、311のときもそう、ダイヤが乱れると必ず駅員に怒鳴り散らすオッサンがあらわれる。
ちょっとでもイラっとくることが起きたとき、我慢できずに当り散らすやつって大抵オッサンなんだ。若い男じゃない。
そしてオジイチャンっていう年齢でもない。40~60に集中しているように見受けられる。
電車で迷惑行為に出るのはオッサンだけじゃない。オバサンもそうだ。
この間、見た感じ女子大生くらいの年齢の女の子にオバサンがヒステリックに叱りつけているのを見た。
女の子は地味で暗そうな子。顔色が悪く、貧血か何かで体調不良のように見えた。
しかしオバサンは彼女を叱り付けて立たせ、そばに居た老人に席をゆずらせ、説教をした。
女の子はよたよたしながら老人とオバサンに対して「すみません…すみません…」と繰り返し謝っていたが、
そもそもそこは優先席ではないし、体調が悪い若者にも座る権利くらいあるだろう。
こういった干渉的に正義を振りかざすタイプのオバサンも居れば、堂々と割り込みなどのモラル皆無の行いをするオバサンも居る。
注意されると当然逆ギレをする。オバサンの集団になると一層タチが悪く、飲食店の行列で割り込んだオバサン集団に注意したときは
堂々たる逆ギレをされ、おれが正論で返すと捨て台詞のようにして暴言を吐かれた。
こうしたタチの悪いオバサンも40~60の年齢に集中している。
思うにこいつら更年期障害なんじゃないだろうか?更年期は「性ホルモンが急減することにより気分や体調が乱れる」ことだ。
女の閉経ばかりが注目されるが、男も40以降は男性機能が急激に落ちる時期。
電車でやたらと当り散らしてる変な男が40~60に集中しているのは「男性ホルモンの急減により気分の変調が起きているから」
そして60を過ぎて高齢者になると比較的キレる奴が減るのは「男性ホルモンが低値安定し、気分も安定するから」
これで全て説明できるのではないだろうか?
ネット上ではキレるオッサンを団塊叩きなどの世代批判につなげ、他人事にしてしまっている節があるが、そういう問題ではない気がするのだ。
氷河期世代やゆとり世代も、オッサンになればホルモン量が減ってキレまくる迷惑人間になる可能性があるのではないか?
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
農業や労働者の保護を口実に何をしたいかは皆さんもご存知でしょう。日本解体です!!
東京都青少年健全育成条例に賛成する発言をした、チャンネル桜の水島総氏に対する皮肉です。
TPP反対のチャンネル桜がTPP賛成の保守派に「なぜチャンネル桜は左翼といっしょになってTPPに反対してるんだ!?」と言われたら血相変えて怒るのではないでしょうか。
俺もTPP反対派ってJAとか医師会とかのような利益団体を除けば左派が多いな…って最初は思ってたけど、
JAの反対署名の賛同者のリストを見れば、保守・右派色が強いそうそうたる顔ぶれも反対派に名を連ねていることが分かるだろう。
TPPがどのような影響を及ぼすのか、俺にはさっぱり分からない。
ただ、ウヨサヨで賛否を分けるのがあまりにナンセンスだということを改めて明らかにしたことは100%確実に間違いない。
それにもかかわらず、ネット上では民主党が推進するから反対という、天の邪鬼的な発想しかできない奴がいる。
民主党の議員も半数近くがJAの反対署名に賛同しているのだが。
(余談だが、俺は慎重寄り。)
えっちなファイルをまるで「ぼくのかんがえたさいきょうのぷろやきゅうちーむ」みたいに厳選する行為はネット上ではごくありふれたものだとされているが、あれってぶっちゃけ現物の権利者か、もしくはその手のファイルのコレクターに誘導されてるだけだと思うんだよね。
「違法にダウンロードしたファイルは削除しましょうね」と啓蒙するより「どうでもいいファイルは一度見たら消すのが真の情強(キリッ!」と煽る方が効果的だもん。
本当の「情強」なら、膨大な数・容量のファイルを保有しつつ、見たいと思ったファイルがいつでもすぐに開けるような体制を構築してるはずでしょ?
なんでこんな事を書いたかというと、「見たい時はその都度ネットから落とせばいーし。いちいち保存するとかハードディスクの無駄遣いだしー。」と吹いてた知人が、あてにしてたアップロードサイトが閉鎖(移転?)しちゃって、まるでネットを始めたばかりの中学生のようにお目当てのファイルを手に入れるために日夜無駄な時間を費やしてるのを最近耳にしたから。
近頃、ゲームを全くしなくなった事をよく実感する。学生の頃にはまっていたMMORPGをはじめとするネットゲームは勿論、Xbox360やPS3にも滅多にゲームディスクを挿入することなく、もっぱらDVDやブルーレイの鑑賞機器として稼働している。PSPやDSに至っては一年以上電源を入れていない。
と言っても、ゲーム自体が嫌いになったわけではない。今でもレースゲームやRPGにはわりと興味があるし、最近読み始めたライトノベルの影響か、ネットゲームに対する興味もやや増してきた。多分、これから先もゲームから完全に意識が遠ざかる事は難しいだろう。また、ネット上ではよく「体力が続かなくなった」という声を聞くけども、それも何か違う。確かに昔の様に丸一日をテレビやモニタの前で過ごせるほどの体力は無いとしても、半日くらいなら問題なく向かえるはずだ。
要するに、モチベーションの問題なのだと思う。ゲームなんてただのお遊び。そういう考えが板に付いてしまった。こんな事を言うと「仮想と現実の区別がついてない」という類いの批判を受けるかもしれないが、それに乗っかって言うなら、ゲームというものは仮想をもう一つの現実として扱うからこそ楽しかったんじゃないだろうか。少なくとも、子供の頃はそうだったと思う。勝った負けたに真剣に一喜一憂し、難題が持ち上がると全力で解こうとしていた。今の様に「暇だな。ゲームでもしようかな」ではなく、学校から帰るやいなや、ランドセルをほっぽり出して友人の家に駆けつけてはコントローラーを取り合っていた。
あの頃の俺にとってゲームは特別な存在だった。当時を思い出す度にその一端は感じられるだろう。しかし、今はもう違うらしい。では「今の自分にとって特別なもの」とは何なのか。ゲームに限らず、同じ様な事を感じた時は特にこの点を思い出して欲しいと思う。
ネット上ではほぼ同義というか、一緒になって叩かれてるように見える。
二言目にはネトウヨネトウヨ言って叩かれてるようにも見えるんだけど
少なくとも国ってものが存在する以上は、自分の国に帰属したい、他国とは区別したいって思うのは当然なんじゃね。
まあ、明日から国境が無くなって、国境がなければ紛争も無くなって
世界中の人と平和に暮らせるならそれはすばらしいとは思うけど。
でも実際にはソ連やユーゴスラビアは細分割したし、なんでもかんでも一緒なればいいってものではないんじゃないか。
文化や価値観を共有する人同士が固まって生活したい、って思う人が多いから、国というものは存在してるんじゃないのか。
この地球上で、違う文化、違う価値観の人々が共存するために国って仕組みがあるんじゃないのか。
国境を作ることで、無駄に衝突するのを防いでるんじゃないのか。
だから、日本人が日本列島で日本の文化や価値観を共有する人で一緒に暮らしていきたいってのは
まあ島国根性とかも言われるけど、一概に批判されるべきものではないと思うんだけど。
それを、何かってえとすぐ差別だ排外主義だって言われてもなあ。
パスポートも国籍も存在するんだからそりゃ区別は必要でしょうよって。
もちろん、外国人留学生を奴隷みたいにしてたりするような問題とかあるけど
そういう諸問題は個別に解決すべき事案であって。
なんでもすぐ攘夷だ開国だ、右だ左だって二者択一迫ったり、罵り合ったりするのはなんだかなあと思う。
少なくとも、日本の領土に不法に居座ってる韓国や条約破棄して占領しっぱなしのロシア、領海侵犯を平気で繰り返す中国とは
今すぐ全面的に仲良くするのは難しいと思うんだけど、そういう考えは悪なの?
自分の国が潰れたら国際貢献も何もあったもんじゃないと思うんだけど。
で、こういう考えの持ち主の俺はやはりネトウヨなのかね?
原発には反対なんだがなあ。
定期的に男の娘うんたらっていう記事が出てくる。
で、アニメや漫画に限定してスレが盛り上がってるだけなら何とも思わないのだが、
"毎度のこと"現実の女装子や性同一のトランスジェンダーの画像が貼られて盛り上がっている。
いい加減にトランスジェンダー、性同一性障害、女装子をまとめて男の娘呼ばわりするの辞めてほしい。
全部別もの。
男の娘ってのは、服装や性別はもちろん、アイデンティティも普通の男の子なんだけど
顔立ちやスタイルがどう見ても女の子のようにしか見えないような若年男子のこと。
そういう可愛い男の子が女装した時の女装男子も男の娘呼ばわりされることがあるが、
そして本人が、男に生まれたけど自分を女だと認識してるのが「性同一性障害」。
そこで実際に女の服装したりホルモンに手つけたりしたら「トランスジェンダー」。
トランスジェンダーは、性転換の有無は問わず、性同一性障害でありながら、
性ホルモン投与などを行って女性化をしている段階であればトランスジェンダーなる。
自分が男だと分かってて趣味で女装を楽しむだけのは「女装子」。
そういう女装子が行きすぎてホルモンとかに手をつけたら「女性化願望症」。
(見た目はトランスジェンダーと同じだが、トランスジェンダーは性同一性障害である事が前提なので異なる)
実はこの性同一性障害ではないのに性ホルモンや肉体改造にまで手を出す人達を女性科願望症以外の適当な言葉が存在しない。
日本じゃホルモンやったり豊胸したりして限りなく女性的な容姿の人をトランスジェンダーとは別に
「ニューハーフ」って呼び方するけど、本来はニューハーフは水商売業(タレント業含む)をやってる事が前提にある呼び方。
ただし性転換をして戸籍変更すれば「元ニューハーフ」となる。ニューハーフという呼び方はまだ性転換手術をしていない状態。
以上のように、性同一性障害者/トランスジェンダーは男の娘には含まれない。
ニューハーフは職業的な意味だから、ただ女装が好きな男性が水商売業に就いたらニューハーフになる。
男の娘だった男子も、女装をして水商売業に行けばニューハーフになる。
性同一性障害者やトランスジェンダーも水商売でニューハーフになる。
ニューハーフ業を辞めれば、元ニューハーフという肩書きは付くが、
トランスジェンダーも、また一般のトランスジェンダーに戻るだけ。
(男の娘と女装男性は、女装しなければ普通の男性にいつでも戻れる)
ここまで書けば、各呼び名の違いやニュアンスが掴めたと思う。
日本語での妥当な翻訳だと、「ニューハーフ」が一番近いとされているけど本当はちょっと違う。
女装子やトランスジェンダーの人らを総じて男の娘って呼ぶ風潮があるけど、
メディアにおいては、ニューハーフ&性同一性障害とは違うという分け隔てができてるみたいだが、
メディアはどちらかというと、若年女装子を男の娘って呼ぶ風潮がある。
(中高年女装者や中高年で乙女的な人をオネエって呼んでる節がある。このオネエが昔で言うオカマの代替言葉)
オカマ・・・見た目も心も男性なのに仕草や言動が女性的な男性/または心や仕草・言動は女性なのに見た目が男性的な男性(今は侮辱言葉でもある)
オネエ・・・オカマの現代における代替用語。(メディアではニューハーフも含める事がある)
女装子・・・普通の男性なのにファッションや性的趣味で女装を楽しむ人
→ その中で若年で綺麗に見える人に限り、男の娘と呼ばれる節がある
→ そうでない人や中高年者は、好意的にオネエ、または差別的にオカマ・女装者と呼ばれる
男の娘・・・普通の若年男子なのに、風貌が女の子に見えてしまう男の子。
→ 上手く女装をした時だけ綺麗な女の子に見える若年女装男子にも用いられることがある
ゲイ・・・自分を男だと思っていて、なおかつ同性の男を好きになること
(性同一性障害者は自分を女だと認識しているので同性愛だとは思っていない)
女形・・・舞台やショーにおいてのみ、役作りの一環で女装をする。
もっと分かりやすく、芸能人を公言を元に振り分けてみよう。
(元ニューハーフで性同一性障害のトランスジェンダー)性転換&戸籍変更済
(性同一性障害のトランスジェンダー)性ホルモンはやっているが未性転換
一説によると、芸能界では世間の混乱を招くために、トランスジェンダーである者は
(性同一性障害を抱えたオネエタレント)性同一ではあるが性ホルモン等すらやっていない
(オネエor女装キャラを演じてるだけの一般男性/女形に近い)
(不明・その他)
女装が好きな事は明白だが、本人の性自認が謎(自分を男だと思ってるか女だと思っているか)
→ 彼の性自認は「男」。時折見せる女装姿は役のため。つまり女形役者。
彼の素顔は女の子っぽいというより、クールな美少年なので少し違う。
実際には、メディアには男の娘に当てはまる芸能人はあまり出てこない。
ネット上にはよく出てくる。
女装してるわけでも化粧してるわけでもないし、
それが「男の娘」。
されどネット上では、全部がごっちゃになり、
これは間違い。
そして女装した時だけ綺麗な女に見える女装上手な女装男子のことも
現実でのセクシャルマイノリティの区分けは前回も記事を書いたので、
是非参考にされたし。
世の中はスマートフォンブームだ。
ソーシャルメディアを活用してより多くのファンを集めた
KDDIはFacebook、Skype(マイクロソフトが買収予定)、
foursquareやコロプラなどの位置情報サービス提供会社と戦略提携を結んだ。
iPhoneはiOS 5でTwitterと連携、Androidはメーカーごとにいろいろと組み込んでいる。
極めつけはマイクロソフトのWindows Phone。
ソーシャルメディアの活用を前提に、OSの基本機能として(ピープルハブ)、
「人」単位で、主なツールを使い分けられるようになっている。
(実機は持っていない。紹介記事を読んだだけ。)
Windows Phoneの国内第1弾モデルがあまり売れていないようで、
正直よかった。Windows Phoneの後発ゆえの斬新なコンセプトは、
私は人が嫌いなんだ。誰かとコミュニケーションをとるより、
一人で漫画・アニメを見たり、本を読んだりしていたほうが好きなんだ。
もちろん、誰かに相談したい、誰かの力になりたい/力になって欲しいと
思うこともある。
同じ興味・関心を持つ人を探し、一方的に記事やコメントを読んだり、
意見を交換したりできた。
ネット上では関係なく、自由に振舞うことができた。
いつでもどこでも携帯ネットではなく、PCのインターネットにつながり、
GPS情報を簡単に付加できるスマートフォン・タブレットの普及をきっかけに、
もし、PC・デジタルに全く関心がなく、スマートフォンを使いこなせない情弱だったら、
たぶん、気にならなかった。
デバイスとしてのスマートフォンは非常に心地いい。とても便利だ。
ソーシャルメディアを活用する人が増えるにつれ、
コミュニケーション力のない人間は、社会不適格者か、広告価値のない人間か。
ネット上にすら居場所がなくなったら、
何を拠り所にすればいいのだろう。
"楽しそうなこと”がたくさん溢れた豊かな世界なのに。
「アンチ」って言っても、別にそのアニメを全否定するつもりは無い「アンチ」だっているんです。
ファンの中には「全体的には気に入ってるけど、ひとつの要素だけは気に入らない」人もいる。
でも、そういう「作品を全肯定できないやつ」はみんなアンチ扱いされる。
作品に欠点があっても、欠点自体を素晴らしいものとして褒め讃え崇めるくらいのことをしなきゃファンじゃないらしい。
そうやってアンチになった後、ファンだったときには気にもしなかった「アンチ叩き」の勢力の大きさに気づく。
「有名な○○さんも作品××を高く評価! アンチはものを見る目が無い」「社会現象になった××のアンチしてるやつって恥ずかしくないの?」
「これだけ売れてるのにアンチしてるやつって頭おかしいんじゃないの?」「××アンチ息してるー?」
「アンチ」や「批判」にネガティブなイメージが付いているのを良いことに、まるで「アンチは人に非ず」と言わんばかりの攻撃をかけてくる。
○○って人が肯定したら右へ倣えしなきゃだめなのか。売れたものは全肯定しなきゃいけないのか。
そんなことはあるまい。いくら絶賛されてようと、売れていようと、欠点があればそれに対しての批判があって良いはずだ。
でも著名人に褒められた、たくさんの人に好評を得た(たくさん売れた)、だから批判される謂れは無いという意見がやたら大きい。
マジョリティなのかノイジーマイノリティなのかは分からんけど、ネット上では「そういう人」が「多数派」になってる。
全肯定するファンか、キチガイ扱いされて排斥されるアンチか。どちらかしかあり得なくなってる。
何か脱線しちゃった。
超特殊ケースを一般化しようとするのは暴論。
嫌なら見るなっていうのは、ある作品を好きな人と嫌いな人がいるとして、
それが「嫌い」であることを好きな人がいる場所で公言する行為に対して「マナー違反」を指摘すること。
これがなぜ「嫌いと発言する自由」を侵していることにならないかと言えば、
ある作品を中心としたコミュニティというのは、通常は「好き」のコミュニティだから。
嫌いな人はその作品に関心がないからコミュニティには入っていない。
それなのに、わざわざそのコミュニティに入ってきてそれが嫌いだと公言するんだから、「嫌なら見るな」は成り立つというわけ。
嫌なら「嫌い」のコミュニティで言えばいい。その時、わざわざ入ってきて好きであると公言するのはマナー違反。
しかしネット上では、そのコミュニティというのが好きと嫌いの棲み分けがしにくい性質を持っている。
例えるなら、部屋で一人でテレビを見ているのが従来の形、大部屋でたくさんの人と同じ番組を見ているのがネット。
この大部屋という形になると、一人で見ている時と違って自分と違う意見が聞こえやすくなる。すると、それに対して「自分はそうは思わない」と反論したくなってしまう。
島田紳介の引退騒動では、多くの芸能人・著名人・果ては政治家がコメントを発している。
まだ暫くはざわついた雰囲気をテレビやインターネットから感じるのだろう。
そんな中、上地雄輔のブログ記事とそれに対するコメントについて
http://ameblo.jp/kamijiyusuke/entry-10996865827.html
実際私もこの記事を読んだ、コメントも一部ではあるが読んだ。
確かに文章は30代男性『社会人』の書く文章ではないかもしれない。
だが私はこの文章に『人としての真っ当且つ正常な感情』を感じた。
文章としての良悪ではなく、彼が書き表したかった30代のくせにバカ素直過ぎる悔しさを
指をさして笑う事は格好悪くないのだろうか。
そもそも本来『陰口』とはそれ自体が忌むべきものであり
本人の目耳に届かぬよう『陰』で囁く物であったはずである。
パスワードで管理されていようが、どこかに"ほつれ"が生じれば途端に世界へと漏れ出す。
『陰口』を叩くには余りにも見えすぎるのである。
30代以上の大人は、パソコン・インターネットが普及した時点で既に10代後半以上であるので、
基本的にはネットでの立居振舞は弁えていると思われるが(一部に存在するであろう酷い例外は除く)
インターネットでの繋がりの中で平然と他人の悪口を連ねる。
○○が嫌い
○○消えればいいのに
それらは『○○』という単語を検索すれば見つける事が容易である。
探さなければいい。
見た方が悪い。
本当にそうだろうか?
そもそも『陰口』は端から見れば醜い、【悪】だったはずではないか。
陰口を叩く側も、それが分かっていたからこそこそと話していたのではないか。
そんな当たり前だったはずの節度を、子供たちはいつから学べなくなったのか。
まさにその頃いじめていた人間、いじめられていた人間、ただ見ていた人間が
今親となっているのであろう。
それも『インターネット』という目に見えないとてつもなく大きな世界の中で。
例えば他人の悪口をネット上で放っているのが自分自身でも同じである。
それは恐ろしい事ではないのか?
いつ自分が、自分の家族が、上地の立場に立たされるか分からない世界で
声高に騒ぎ立てている事に恐怖のかけらも感じていない。
島田紳介の引退から上地雄輔のブログの文章、そして周囲の反応に関しては、
夏が終わる前に一度真剣に考えてみてはどうだろう。
ただ笑って「あれ酷いよね」と終わらせる身近な誰かを放っておいてはいけない。
顔と顔を合わせ、お互いの醜い顔を確認する事で「悪い事」と感じることが必要なのである。