2010-07-27

近所のガキがテレビに出てたって話

近所のガキが死んだ。交通事故だった。

その子の母親が、彼の通っていた工作教室ニュースで特集されたときの録画を見せてくれた。

テレビの向こうには数年前の彼がいた。でも何か違和感があった。

その当時彼はうまくしゃべれなかった。(いや障害とかじゃなくて、単純に幼かったからね)

そこでテレビ側は声優吹き替えをさせた。

吹き替えというと、なんだか違うかもしれないが、まあ分かるだろう。

犬やサルにやるあれだ。「う~んお腹が減っちゃった」みたいなね。

テレビの彼は確かに彼であるけれども、俺の知ってる―鼻くそほじって食ってるような―あいつじゃない。

でもテレビの向こうの彼は確かに存在してる、それで「イタタタタ・・・・」なんてアニメ声で膝をさすっている。

それが不思議感覚を呼び起した。

それで何を書こうとしてるかっていうと、なんだって思想とか哲学とかの話は盛り上がらんのかということ。

実体験や、たとえ話にはえらく口を出してくるくせに、

何だってそういう類の話は避けるのだろうか、というのが不思議でたまらなかった。

んでもって、それがどうしてかっていうと、結局他人事だからだ。

ガキが鼻くそほじってくって、立ちションして、犬のウンコつついてるところなんて誰も見たくない。

これから彼がどんな風に生きていき、死んだかも見たくないだろう。

だから、誇張したり編集したりアニメ声にしたりする。彼の人生コンテクストを切り取って。

工作教室で何か作るのも、経済的原因で大学いけないのも、会社がつぶれて借金苦になるのも、

女に振られて女を恨むのも、大事な人が自殺するのも、ガキが事故死するのも、

そこだけ切り取られれば、他人にとってはエンターテイメントだ。

私小説風に書かれていればさらに最高。「自分じゃない誰かの話」ってことがはっきりする。

一方で、思想哲学は、物事の理やらなんやらについて書かれているから、自分にかかわってくることが多い。

主語は無かったり、大きかったりするし、何を言いたいのか考えるのに頭をつかわにゃいけない。

この文章だって何人がここまで読むだろうか。

こんな文章を読むより、ガキがどうやって死んだかを考えるかのほうが楽しいんだろ?

内臓はぶちまけたか?とか、死ぬまで時間がかかったか?とか、そのときお前はどう思ったんだ?とか。

ついでに、それにトラバするのが楽しくて仕方が無いんだろ?

その死を乗り越えてがんばって生きろ、とか、悲しいねとか。

ちょっと書きすぎた。

でも、こんなの変だ。死んだガキも、なんでだかよく分からんが、こんなアホみたいな文章書いてる俺も、

テレビの向こうの犬でもサルでもない、ついでに言えば工作教室のあの子とも違う。

なんで俺はこんなことをしてるんだろ。俺は、もしかしたら他人事にしたいのかもしれない。

それってどうなんだろうか。動物番組を何の気なしに見て、他人事にして、それってどうなんだ?

そこらへんの答えは出てないし、実は正直どうでもいいんだけれど、とにかく、なんだろうか?そういう話だ。

  • この文章だって何人がここまで読むだろうか。 読まないだろうなあ。 俺は悪文読んで「ばか」とか「ていがくれき」って言ってやるのが趣味だから読んだけどさ。 読まない理由はお...

  • 世の中には、明らかに娯楽だけに一生懸命になって生きてる奴が大勢いる。 テレビを使ってガキを取り上げた連中はそんな奴らから金をむしりとって生きている訳だ。 現実を見ようとせ...

  • 何故だか深く感銘を受けた。 死んだ子供の感情はかき消され、脚色されたものに作り変えられた事に悲しみを感じる。 「死人に口なし」とは言うが、もし子供が仮に生きていて取り上げ...

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