近所のガキが死んだ。交通事故だった。
その子の母親が、彼の通っていた工作教室がニュースで特集されたときの録画を見せてくれた。
テレビの向こうには数年前の彼がいた。でも何か違和感があった。
その当時彼はうまくしゃべれなかった。(いや障害とかじゃなくて、単純に幼かったからね)
吹き替えというと、なんだか違うかもしれないが、まあ分かるだろう。
犬やサルにやるあれだ。「う~んお腹が減っちゃった」みたいなね。
テレビの彼は確かに彼であるけれども、俺の知ってる―鼻くそほじって食ってるような―あいつじゃない。
でもテレビの向こうの彼は確かに存在してる、それで「イタタタタ・・・・」なんてアニメ声で膝をさすっている。
それで何を書こうとしてるかっていうと、なんだって思想とか哲学とかの話は盛り上がらんのかということ。
実体験や、たとえ話にはえらく口を出してくるくせに、
何だってそういう類の話は避けるのだろうか、というのが不思議でたまらなかった。
んでもって、それがどうしてかっていうと、結局他人事だからだ。
ガキが鼻くそほじってくって、立ちションして、犬のウンコつついてるところなんて誰も見たくない。
これから彼がどんな風に生きていき、死んだかも見たくないだろう。
だから、誇張したり編集したりアニメ声にしたりする。彼の人生のコンテクストを切り取って。
工作教室で何か作るのも、経済的原因で大学いけないのも、会社がつぶれて借金苦になるのも、
女に振られて女を恨むのも、大事な人が自殺するのも、ガキが事故死するのも、
そこだけ切り取られれば、他人にとってはエンターテイメントだ。
私小説風に書かれていればさらに最高。「自分じゃない誰かの話」ってことがはっきりする。
一方で、思想哲学は、物事の理やらなんやらについて書かれているから、自分にかかわってくることが多い。
主語は無かったり、大きかったりするし、何を言いたいのか考えるのに頭をつかわにゃいけない。
この文章だって何人がここまで読むだろうか。
こんな文章を読むより、ガキがどうやって死んだかを考えるかのほうが楽しいんだろ?
内臓はぶちまけたか?とか、死ぬまで時間がかかったか?とか、そのときお前はどう思ったんだ?とか。
ついでに、それにトラバするのが楽しくて仕方が無いんだろ?
その死を乗り越えてがんばって生きろ、とか、悲しいねとか。
ちょっと書きすぎた。
でも、こんなの変だ。死んだガキも、なんでだかよく分からんが、こんなアホみたいな文章書いてる俺も、
テレビの向こうの犬でもサルでもない、ついでに言えば工作教室のあの子とも違う。
なんで俺はこんなことをしてるんだろ。俺は、もしかしたら他人事にしたいのかもしれない。
それってどうなんだろうか。動物番組を何の気なしに見て、他人事にして、それってどうなんだ?
そこらへんの答えは出てないし、実は正直どうでもいいんだけれど、とにかく、なんだろうか?そういう話だ。
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