2009-06-09

89歳の父親が死にそうだ

89歳になる父親が弱っている。もともとは肺炎だろうが、近所の開業医さんが往診までしてくれて解熱し、痰の量も減った。しかしながら体へのダメージはなかなか回復せず、日に日に食事量が落ちている。

先週、久しぶりに東京へ行く用事があったので寄ってみたが、頬はこけ、声に力もなく、医者である自分じゃなくても死期の近さは感じ取れる。幸か不幸か頭は大丈夫なようで、冗談に反応したり、笑顔を見せたりする。

食事さえ取れればある程度回復するであろうし、今回乗り切ればまた少しは元気になれるだろうから入院したらいいのではないか、と母親に勧めるが、父親は望まないからと自宅療養で過ごしている。たとえ最悪な結果になったとしても看取る覚悟を決めているようだ。否、まだ臨終間際のリアリティがないといったところか・・。

常々、自分患者さんの家族には、「病気としては安定していて、ただ単に高齢ゆえ食事が取れないだけの状態は、動物として限界なのであり、医療対象にはならない。」と伝えていた。

しかしながら昨今の状況では、その考えに頭では理解するが、心底納得して覚悟する人は皆無で、大概、中心静脈栄養から胃ろう増設、そして療養型病院へ転院という結果となる。そこで誤嚥性肺炎発症、絶食プラ抗生剤投与、軽快すればまた食事再開で、同じサイクルに突入する。よくある高齢者悪性サイクルだ。それでも本人に意識があればまだ改善を望むが、認知症その他の理由で意思疎通の反応がうすく、家族もまれな来訪になることも多い。一体誰が何のためにやっているのだ、と少しマトモな神経を持った人なら憤りたくなる現状が日本中いたるところにある。

こんな状況をそのまま放置して、よく医療費削減といって真に必要な議論をしないまま論点を進めていくのかさっぱり不明だが、マスコミはじめ外野の声ばかり大きくて、悪者になりそうな議論の先鋒に立つ人も皆無な状況では、あきらめざるを得ない。こうしている今だって、胃ろうが入った人の熱発で呼ばれ、抗生剤投与と経管の中止、補液の指示をしてきたところだ。

世の中の流れに抗えないくせに、それでいて自分の父親は、まだまだ頭がはっきりしていて可逆的な状態にも関わらず、在宅看取りの方向へすすんでいる。たとえ在宅であっても、せめて自分が最後の治療を行い、看取ることができればせめてもの孝行になるのかもしれないが、遠く離れた現状では、近くの先生にお願いするしかない。

正解はわからない。ただ、自分がそういう選択したからといって、他人に強要するようにはならないようにしよう。当事者になってしまうと今後の議論に中立を保てる自信がなくなる・・・・。

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