2009-04-01

最初の会社で過労で体を壊した

まぁ、壊したっていっても倒れるとか血を吐くような話じゃない。咳が止まらなかっただけ。呼吸が出来ないのが唯一の苦痛仕事が忙しくて病院に行けず、行ったころには治まっていた。精神的にも体も若かったと思う。翌年、レントゲンに影が写って。治っているから気にするなと医者に言われた。会社の別の職場に移ることにした。

しばらくして、風邪を引きやすくなったことに気がついた。風邪なんか引かなかったのに。しかも熱が出る。熱が出て節々が痛むってこんな感じなのか!と新鮮な驚きがあった。毎年のことになった。

次の会社仕事は面白かった。自分でいろいろ工夫できたし、向いていた。天職かもしれないとおもった。だが、数年経って会社が大きく成長した後、軽いノイローゼになった。たぶんあれはノイローゼ。客ががんがん電話で怒鳴る。何とかしなきゃ。でも、会社が動いてくれない。自分だけでは解決できない。仕事に行かなきゃ、とベッドから起き上がると胃の中になにもないのに繰り返しえづいた。歩きながら、おえ、おえと、空っぽの胃を引くつかせた。

辞めた。

気がつくと、花粉症がとてつもなく悪くなっていた。単に年なのか、あるいは病状が進行しただけなのか、それとも過労がたたったのかは知らない。

3番目の会社では違う仕事に就いた。面白かったし、成果も出た。周りもそれなりに重く見てくれた。が、結局2番目の会社でやったのと同じ仕事に移ってくれといわれた。一応選択肢はあるような言い方だったが。

客先の窓のない部屋に詰めた。客は気を使ってくれたが、何とかしなければという気持ちと何ともならない状況で板ばさみになり、1ヶ月で気分がおかしくなってきた。高揚と落ち込みが交互に襲ってきた。やばいやばい、仕事を忘れろ、空を見ろと自分鼓舞した。これはうつ病への道だと思った。こんなアップ・ダウンに俺の心がいつまでも耐えると思ったら大間違いだぞと自分に言い聞かせた。狭い部屋は薄い仕切り。隣の部屋で、別の会社から派遣されてきている若い技術者が、上司に「お前は熱意が足りない」と説教されていた。冷たい空気が吹いたかった。建屋の周りを何度も歩いた。冬の空は青かった。駐車場外車だらけだった。みんな山のように払われる残業代を使う方法を、ほかに知らない。ものを買う以外の時間もない。意外なことに心より先に別の臓器が根を上げた。ある朝、上司電話した。今日、二回発作がありました。たぶん狭心症です。あ、今三回目が始まりました。病院に行く間、2週間ほどは開放された。本当に開放されたのはずっと後だった。

しばらくして、定例電話会議をすることになった。電話会議では客先のある人から繰り返し怒鳴られた。怒鳴られない方法を考えながら必死で通訳した。まじで英語がうまくなったね。あはは。

ようやく落ちついて、これからはこんな目にあわないよう、客に迷惑をかけないよう会社をどうやって動かそうかと考えていた矢先、部門売却が発表された。社長いわく、「残っても居る場所はないでしょ」。売却先に移れば、数年に分けて都合数百万円くらいは追加ボーナスが払われると説明された。説明は口頭。日本法人からはとうとう紙切れ一枚出なかった。

売却前に辞めた。客先に挨拶に行った。たった一人、送別会を開いてくれた人がいた。本当にありがとうございました、どれほど助かったことかと言ってくれた。涙が出そうになった。

拾ってくれた今の会社には感謝している。激務もない。ひどいこともいわれない。だが、もう俺はおしまいかもしれないと感じる。前の会社でおかしくした体は、どうやっても最後の業務以前の水準に戻らない。どうでもいいことで心の平衡を失いそうになる。動脈硬化の兆候が出ている。「傷あとを残さない恋はないのよ」と、昔好きだった女性が言ったのを思い出す。傷あとを残すのは仕事も同じらしい。こんな心と体で、あと、5年生きられるだろうか。

別に長生きがしたいだけじゃない。単に家で待っている嫁に、苦しい思いをさせたくないだけだ。そんなささやかな願いも実現できないのが、俺の人生なのかもしれない。20年前社会に出たときには、こんなはずじゃなかったのに。

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