日本語の豊かさを感じるのはこのような言葉遣いに出会ったときだ。
能動と受動を区別しない、あるいはできない境地に達することが悟りである、みたいな信念というか。
作為と自然が溶け合ってしまうというか。
日本人ないし日本社会は世俗的であるといわれるが、裏返すと、現世のそこかしこに宗教的なものが遍在しているような気がする。といっても八百万の神とかアニミズムではなく、現世こそが修行の場であり、そこで得られた結果によって救済されるかどうかが決まるというか。だから、何よりも事実を重んじる。観念や知識よりも事実が大事。しかし、その事実もまた拡大解釈されたものであり、たとえば体感不安といったものも含まれてしまう。
日本がいまだにデフレを脱却できない、あるいはしようとしないのも、デフレというのはある種の人々にとって望ましいものなのだろうと思う。それはつまり、現世における救済の閾値が上がることで、より信仰を確かめやすいものとなるのだろう。あるいは蜘蛛の糸を垂らす、垂らさないといった生殺与奪の権利を恣にしておくことへの欲望なり快感もあるのかもしれない。
間違ってるかもしれないが、そうとしか思えない。
いつも思うんだが、「自粛を要請」とか意味わかんない。 日本語の豊かさを感じるのはこのような言葉遣いに出会ったときだ。 それを文化論として述べたい気持ちは分かるし、妙な言...