2007-11-21

なんというか、

http://anond.hatelabo.jp/20071118171045

ちょっと文芸的に過ぎるけど、良文だと思う。「ある個人史の終焉」を読んだときも村上春樹っぽい文芸ライクな文章だなぁ、って思った。でもまぁ、文芸的云々は別にして、こういう人がそのように存在する事は、なんら咎めたてられるべきではないと思うし、現実に知人でそういう人がいたら、祝福すると思う。

それでも、だ。

なんというか、この手の話を読んで、阪神・淡路大震災ドキュメンタリーかなにかで、夫か恋人を亡くした女性が「なんであの人が死ななければならなかったのか」と言っていたのをTVで見たのを思い出す。なんで、その日その時間に、自分の伴侶が、特定の個人が失わなければならなかったのか。当然、必然ではなく偶然なのだから、答えはない。

そこに存在して生きていて、継続し、また今後継続してゆくであろう、時間の重みを経た生そのものが、生きている意味だというのならば、(あるいは予め)それが剥奪される人もいるんだなぁ、と、そういう想像というか可能性というか、または現実そのものが一方で存在するわけで。

あるいは、生きていることが生の意味そのものである一方で、生きていることが不断に死に続ける事と同義の人間がいるということ。

増田とか「ある個人史の終焉」の人は、自分がそういう立場におかれた時に、まだ文芸的に感傷的に、正しく強い言葉を吐けるのだろうか?(そうであればいいと思う)

正しく強くまたは美しくそして深く、そうある事は結構であり、かつ結果として立派な事だと思うけど、それでも、やはり、違和感は残る。ま、そんな事言い出したらキリが無いのは分かっちゃいるけども。

記事への反応 -
  • ある個人氏の終焉、と言う文章を先日読んだ。男女が出会い、子供を妊娠した、と言う話だ。 私は十代のころに子宮筋腫が出来、そして手術を受けた。不妊の傾向はあるだろう、と言う...

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