はてなキーワード: 感傷とは
会社を辞めて暇になったので、これまでほとんどしてこなかった読書をしている。
そうすると、今まで自分の人生を通して思いついたと思ってきた自分の中の小さな思想やポリシー、あるいは個人で考えつく世界観、感傷、恋愛経験、虚しさ、悲しみ、小さな喜び……。
そういったものが過去の賢かった人々によって、殆ど書き尽くされていることに気づいた。
そうして世界に目を向けてみると、もうすでに書き尽くされた議論を何度も何度も最初からやり直している人々や、少し言葉を変えて新しい発想かのように発表している人々が殆どであることに気づく。
そう考えると、あまりにも虚しい……。
そして俺が今書いているこの感情ですら、もうすでに書き尽くされているに違いない。
そう思いつつ「いや、オリジナルでないからといって価値がないわけない」と自分を慰めつつ本を開くと、それすらも書き尽くされていた。
俺は本を読むことをやめた。
「過疎地に国力を注ぐ必要はない」って、本当ですか? 反論に続々と思い出が集まった【能登半島地震】
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_65a78864e4b00bbb446d324e
「固有の文化まで切り捨てないで」。
こういうの見ていつも思うんだよ
無くなりそうになった時、ってのはもう手遅れを通り越してんだ
地方で祭りが無くなるとき、前触れもなく突然、来年はやーめたって終わるとでも思ってんのか
毎年毎年ずっと検討されてるに決まってんじゃんよ
ずっとずっと、もう少し頑張ろうって老体に鞭打ってやるが
それにも限界がある
それが表に出るってのは、もうもろもろ決定した後なんだよ
鍛冶職人が居なくなるとか
そういうのは、発表された時点で終わってんの
だから、それを終わらせたくないなら
存続を望む人が大挙して移住するか
そういう話なんだよ
越後の山奥にあるうちの田舎もコロナを機にすっぱりと祭りをやめた
「開催しなかった」と言う実績が後押しした形だ
あの蘇民祭ですら終わる
切り捨てないでというのは、こういうの全部の話なんだ
被災地を絡めたお涙頂戴の話じゃねぇ
BUMP OF CHICKEN TOUR「ホームシック衛星2024」名古屋公演2日目に行ってきた…のだけれど。
魂を浄化するはずのバンプのライブでこんな絶望的な思いをするとは思わなかった。
バンプは何も悪くない。
ライブ中、アリーナ席の通路をずっと歩いて巡回しているのである。それが気になってライブにまったく集中できなかったのだ。
「あなたが敏感すぎるんだ」と思われるかもしれないが、たとえば映画や舞台を想像してみてほしい。
世界に入り込んでいる者にとって、動く人間がどれほど目障りな存在なのか。感覚としては「映画館でスマホの画面が目に入る」、あの感覚が非常に近い。
しかも見ている相手は「冷静な人間」。感傷に浸って泣いたり叫んだりしている姿を、シラフの人間が見回りにくるというのはなんとも居心地の悪いものである。
「来やがった」「次はいつ来るんだろう」……そんなことを考えている間にライブは終わった。せっかくのライブが憎しみに染まってしまったのだ。
最も大きな問題は「いったい何を警備しているのか」ということだ。
視界を遮り、鑑賞のジャマをしてまで歩き回って何を見張ることがあるというのか。
こうした巡回スタッフを目にするようになったのは、コロナ禍に入ってからだと思う。少なくともそれ以前にそんなことを思った記憶はない。YOASOBIや最近の乃木坂46のライブでもそういうスタッフはいた。
YOASOBIのライブでは「スマホで静止画撮影OK」「動画はNG」だったため、動画撮影している者に注意する、という意味はわかる。
乃木坂46のときはマスク着用が義務付けられており、「マスクを外す人を監視するため」という理由も理解はできる。
今回のバンプは何なんだ?
定期テストの不正を見張るように、歩いて監視しなければならないほど低い民度なのか?
端の席だったこともあり、通路側に席から少しはみ出ていることを巡回スタッフに注意されたりもした。
自分の他にも注意されている人がいて、胸が痛んだ。ノリにノッているところに水を差されているのを見ると、関係ないこちらまで悲しくなる。
注意されて気分を下げることのほうがよほど迷惑行為じゃないんですか?
なんでそんなに見張られなきゃいけないんですか?
なんでそんな注意されなきゃならないんですか?
仕事がクビになったら困るからやめたけど、そんなことを考えるくらいには腹が立っていた。「前から7列目」という大当たりの席だったから、大声で叫んだら藤くんならわかってくれないかな、なんて思ってみたり。
ライブ中にそんなことを考えている時点で「楽しんでいない」よね。
最近は相手の気持ちを想像できない人間が本当に増えたと思う。何をしたら誰がどう嫌な思いをするのかに思いが至らない。
そしてその奥にある、見えないものを感じ取れ。
藤くん、助けてくれ。
ボーはおそれているを見た
本当ははてな匿名ダイアリーに書こうと思ったのだが、初の試みすぎてどこからいけば入力ホームに飛べるのかも分からなかったので、こうして一旦自分のエディタに向かって書く。ちくしょうめ。
お前たちがこれを見ているのなら、どうにかうまいこと投稿できたんだろう。
あのミッドサマーを作った、嫌な人間関係を描くことでお馴染みの男アリ・アスターの作品だ。
彼の妙に女側の鬱憤描写に自信がありそうな感じは、まあきっと他の人が論じることだろう。
以下は、ボーと同じく母子関係に問題のある増田がどのようにボーと旅をしたかの備忘録である。
物語は、ボーが母親の誕生日パーティをドタキャンしたことから始まる。
ボーはいつも恐れていた、母親の機嫌を損ねることを。傷つけることを。
わかるぞ、ボー。
女手一つで息子を育てるというのは、どんなに大変なことか。
大人になればなるほど、それが途方もない献身の末にあったことが身に染みるようになる。
そんな彼女の気持ちを裏切るのは、いつも最悪な気分になった(これは増田の話)
それにボーは、母親の経済的援助の元にある(はっきり書かれてはいないが、増田はボーのカードは母親名義のものだと推測している)
就職先とか全部潰されてきたりしたのだろう。
アパートで鍵を奪われたりしたのは、なんだったんだろうな。
母親は誕生日パーティのドタキャンを受ける前から、ボーに試練を与えるつもりだったのか。
それとも、母親の一味の中にボーに害意を持つ者が個別にいたのだろうか。
あるいは、「お前はこれで終わりだ(うろ覚え)」と語りかけてきた男は、ボー自身の破滅願望だったのか?
ともかくここからボーの辛い旅が始まる。
家にたどり着くまでのやつは割愛しよう。
あれはほとんど昔話で言う「三回正しい行動をしたものだけが生き残れる」みたいなお約束パートに見えた。
その中でも、医者の妻や森の痩せた男など、ボーに同情的な人々は少し居た。
彼らはどんな気持ちであの寸劇をやっていたのだろうか。
あの医者の家の娘、その気の毒さ。
突然やってきたボロボロの中年男性に、居場所を奪われるのは苦しかっただろう。
もしかしてあのペンキを急に飲んだのは、ボー母からの内密な指令だったのかもしれない。
例えば誰も逆らいようのないボー母から「ボーと恋人関係になれ」などと命令されたなら(もちろんもし従ったところで、きっとボー母は彼女を始末しただろう。ボーにセックス禁止の呪いをかけていたわけだし。つまり、彼女が本気でボーを誘ってボーがそれをちゃんと断るところを見たかった。試したのだ)、あのヤケクソも理解できる。
ティーンエイジャーがそんなことを強いられれば、死にたくなったって仕方がない。
(追記:最初の推測は上の通りだが、よく考えて「ボーを本当の息子として扱え」が命令だったのかも)
個人的な推測をさらに進めるなら、ボーの母は彼を裁くに足る証拠を集めたかったのだろう。だから彼が罪を犯すチャンスをたくさん与えた。
そういえばボーの居住地区の治安が終わってるのも、母の采配なのだろう。
彼女はボーが自分を愛していないことを、確認したかったのかもしれない。
ペンキ自殺をきっかけに、ボーは次のステージへと追い立てられる。
舞台の筋を書いたのは母親だろうから、母の愛(鎖)を断ち切ったところで幸せにはなれないという話だったのだろうか。
結構序盤からボーの妄想劇場っぽかったから、あれは単に彼の内心の探索だった説の方が強そうだが。
そういうお母さんの話(舞台)を途中から流すようなところが、母をイライラさせていた可能性はある。でもあのお母さんイライラ範囲デカいからな…。
セレモニーが終わってみんな帰った後っぽかったのは、フェイクだったからだろう。元々死んでない葬式なうえ、目的はボーのリアクションを確かめることだ。
弔問客がいっぱいいたってノイズになるばかり。
クルーズで出会ったあの子(たぶんボー母がセックスに至る前に追い出した)が、葬式に現れる。
彼女はボーと可及的速やかにベッドインするし、死んだ母親のアクセサリーとかもいじくり回す。
絶対このタイプの女、ボー母は嫌いだもんな。明らかに遺産目当てだし。
あのおっかない母親が死んだ今、ボー一人を籠絡するのは楽勝だと思って現れたのだろう。
でもこういう金目当て女に易々とハマるのは、ボー母の責任だ思う。
お前がボーに恋愛(セックス)を禁じて、免疫を得るチャンスを与えなかったから……
そしてボーは母親に言外にしかし固く禁じられていた射精を、彼女の中で果たした。
ボーが母親に決定的な不信感を覚えた瞬間だと思う。
あの外観を与えたのはボー母であるし、自分の中で射精した瞬間死んだみたいなエピソードもそれっぽい。
ボーを宿したあの瞬間までで夫の物語を止めて仕舞えば、美しい話で終われる。
隙を見せたお前が悪いので自分語りをするが、私も過去に浮気をされたことがあり、ボー母のこの気持ちはよくわかる。
ある一瞬以降の「あいつ」を死んだことにしてしまえれば、どんなによかっただろうか。
ここに関しては、ボー母は自分のやりたいようになったことだろうから、少し羨ましくもある。
アリ・アスター監督は女のこう言う感傷部分への理解が異様に深い。
私も無限の金があったなら、昔の男のことは好きなだけボロボロにした上に殺したと思う。
なんでもできるが故に、諦められない。
彼女にとってどうしようもできないのは、人の心だ。
父親の心も、ボーの心も彼女は全く思い通りにできなかったのだろう。
一度、彼女の側に立ってみてボーを見る。
多分父親に似ていたのだろう。
今度こそ自分を一心に愛する男に育てようと心を砕いたのに、ボーは何度でも「私」を裏切る。
男友達と一緒に自分を貶め、自分以外の若く美しい女と寝ようとする。
自分に愛しているという口で、カウンセラーには不満や憎しみを言い募る(聞いてる母が悪いのだが)。
愛しても愛しても(少なくともそのように認識していても)、男は決して満足のいく愛を返してくれはしない。
可愛さ余って憎さ100倍ということわざが向こうにもあるのかは分からないが、そんな心境だったろう。
父と息子を混同するの、やめた方がいいよ。
「私」をとうとう完全に裏切った「あなた」なら、安心して殺せるから。
正直言って母の父への憎しみはわかるものの、「子供」としての増田はボーと共にある。
経済的援助を受けていたやましさ。
日記帳を覗かれていたおぞましさ。
母を拒否した時の、たとえようもない罪悪感。
他にも色々あるが、ボーにシンパシーを受けるのはこの辺の過去があるからだ。
私の母は経済的援助についてはもちろん恩を感じるべきだというし、
日記帳に関しては母の愛だったのだから、私が許すべきだと主張する。
そして彼女の様々な誘いを拒否すると、哀れっぽく嘆いて見せるのだった。
これは、このタイプの母を持つ人間にしか分からない強制力だろう。
特にお前が母親に「自分はあなたの死を悲しんでた、超泣いたし」みたいな言い訳してるとこすごい分かったぞ。
自分でも嘘なことはわかってるんだけど、悲しめない自分に罪悪感もすごいしそれが母にバレた日にはすごいことになるから、とりあえず口先だけで母親想いをやるんだよな。
昔は金と罪悪感のコンボで割とコントロールされていたものの、最近すっかり距離を取るようになった。
物理的に距離を開けたのもあるし、一念発起して母に直接様々なわだかまりを伝えたからもある。
まあ全然分かってはもらえなかったのだが、幸いにして私の母には100人の狂った部下はいないし、経済的自立も今のところ果たせている。
このままボートには乗らず、本物の葬式でしか近づかないつもりだ。
ボーよ、お前には全然選択しなかったと思うけど、こういうオチもあったよ。
映画自体は徹底的にバッドエンドだったし、スタッフロール中にも転覆したボートを延々映し続けて終わる最悪さだったが、その後のことは私が勝手に想像してもいいだろう。
ボーはあの後、きっとボートの中にあった空気で助かって、うまいこと脱出できた。
観客席のみんながはけた後、最後に残った私のところにボロボロで泳ぎついて、私は「よく頑張ったなあ」ってボーの手を掴んで引き上げる。
そのあとは小汚いボーを連れてその辺でホットドッグとか買って齧って、公園で「いやお母さんやばいね」みたいな話をして、話も尽きたし寒いから私は普通に家に帰る。
ボーはお母さんの手から逃げることはできないだろうけど、まあなんとかトボトボ暮らしてお母さんが死んだら、遺産とかもらって急に派手な暮らししたらいいよ。頑張ってお母さんより長生きしな。
人より苦しい時間は多かったかもだけど、もしかすると本当にもしかすると、その苦労に見合った価値のある時間がいつかくるかもしれない。
そういうのって、生き残ってみなきゃわかんないから。
ボー、恐れるな。
私もついてるし、意外と似たような境遇のやついっぱいいるからさ。
な、しぶとく行こう。
⚫︎『ルックバック』が漫画としてよく出来ていることはまったく否定しないが、反逆コメンテーターエンドウさんの作者が事件当日に上げた放火魔が地獄に落ちる漫画と本質的には同じだということには自覚的でいたほうがよい。
⚫︎放火魔の漫画は過去作の再掲だったが、まだ現場の鎮圧すら終わらない状況で思わせぶりなキャプションをつけて投稿されたものに事件風刺の意図がないとするのは無理筋である。『ルックバック』も同様に、あの日付けにあのストーリーを掲載した時点で議論の俎上から逃れる道はない。
⚫︎実在の事件を扱った作品は『ルックバック』だけではないとの反論が発表当時散見されたが、『ルックバック』の場合、作者と事件の距離感が特殊である。事件について作者が共感と感傷を寄せすぎている。おそらく第三者として事件を咀嚼せざるをえない無力を嘆く意図があるのではと推察する。
⚫︎主人公が戯画化された危険な精神病者を成敗する(妄想をする)というスカジャパ“チック”な核がエモやら創作賛歌やらで巧みにコーティングされているため、受け手によって論点がブレがちで、ややもすれば本職のクリエイターすら無批判に歓迎していたりする。技術的な面に重点を置いて語る者はこの限りではないが、例の事件への追悼だとして賞賛する者は氷水入りのバケツに頭を沈めた方がよい。
⚫︎特にクリエイター界隈では極めてセンシティブな素材を扱うのだから、作者もそれなりに慎重になっているのかと思えば「(アニメ化が)楽しみです」ときて、もう何も分からなくなった。「未消化なものを消化」できたら次は他人の手に作品を預けて更なるコンテンツ化を許すのか。事件関係者が未だ苦しむ中で何を「消化」したというのだ。
⚫︎いや、アニメ化された途端に強い当事者性を帯びる可能性があるのか。ほとんどの役職を一人で担う中で原作担当までするのは難しかろう。有りもののネームバリューを借りるのは仕方がないのか。
⚫︎作者は次作『さよなら絵梨』でキャラの口を借りて「受け手の心を揺さぶるならば作り手も傷つかなければフェアではない」といった主旨の主張をしているが、作り手も一緒に傷つくなら受け手を巻き込む無神経が赦されるわけではないのではないか。
⚫︎今一度強調するが、この話は『ルックバック』の作品としての質を懐疑するものではない。とても上手い漫画であることに疑いの余地はない。
「新海誠好きの元彼」が何を指すのかについて誤解が生じているようなので下の方に追記しました。
新海誠好きの元彼についてアンケートを取り元彼達についての同人誌を出す企画があったが、その企画に対して「新海誠好きの元彼」を馬鹿にしているとの批判が出たことから、企画が延期(中止?)になったらしい。
「新海誠が好きだった元カレ」がいた人々にインタビューしてみた|ペシミ
「新海誠好きの元彼」同人誌企画への3つのモヤモヤ、あるいはごく個人的な悲しみについてのこと - ささやかな終末
おそらくこの批判をした人も、そして野次馬の多くも「新海誠好きの元彼」ではないだろう。別に「新海誠好きの元彼」を代表するつもりはないのだが、そのうちの一人として意見を表明しておくことに何らかの意味があるかも知れないと思い増田に書いておくことにする。
先に結論を書いておくと、この投稿で主に自分が伝えたいのは「新海誠好きの元彼に関する同人誌」を是非世に出して僕たちの古傷をえぐって欲しいという意見表明であるとともに、そこに少しだけ当時(現在のではない)感じたであろう愛情を添えておいてくれると助かるというお願いである。
まず自分の「新海誠好きの元彼」としてのバックグラウンドを話しておきたい。僕が新海誠作品に出会ったのは高校一年生のときである。中学三年生の時いい感じだった同級生がいたもののお互いに奥手だったので付き合うには至らず、卒業と同時に単身赴任中の父親の勤務先近くに引っ越してしまう彼女との別れを経た僕に当時話題になっていた秒速5センチメートルは死ぬほど刺さった。その後大学生になってからその同級生と5年間遠距離恋愛をしたり(因みに再開した当時桜木町でバイトをしていた、そんなとこにいるはずもなくもなくもなくもなくもなかった。)、彼女の家から帰る時に毎回涙ぐむのを彼女にバカにされるのが定番化したり、夜行バスの中で長文LINEメッセージを生成したりといったような自己陶酔、ロマンチシズムの激しい人間が自分である。
そんな自分なので上記の新海誠好きの元彼がいた人へのインタビュー記事を読んで自分にも間違いなく「新海誠好きの元彼」としての要素があると思ったし、自分と似た人は世の中にそこそこいるのだろうなとも思った。インタビュー内容からは「集団の中では浮いている教室の隅で本を読んでいるタイプのオタクなんだけど、恋愛にはそこそこ興味があって一部の物好きな女性の心をくすぐることがある」というようなイメージがなんとなく浮かんでくる。つまり「新海誠好きの元彼」とは、単に新海誠が好きなだけでなく「遠野貴樹」や「秋月孝雄」、「寺尾昇」といった新海誠初期~中期のウジウジとした主人公に感情移入し、心の中に彼らが住んでいるような男性を指しているのではないかと思う。
まず新海誠好きの元彼同人誌(以下、元彼同人誌と言う)が一方的に元彼をバカにするだけの目的で作成されるというのは誤解を含んでいるのではないかと思う。正直、インタビュー記事の中には自分の行いが書かれているようで目を背けたくなるものもあり、古傷をえぐられる羞恥心となんとも言えない快感に襲われた。あのインタビューはバカにしているかいないかで言えば、バカにしている要素を含むのだろう。一方でそこに当時受け取った愛情も同時には感じなかったというと嘘になる。企画者自身も弁明しているが、同人誌の企画の趣旨には「新海誠好きの元彼」と付き合っていた自分という自虐も含むらしい。これは受け取り方によっては「こんな馬鹿な男と付き合っていた私」という追い打ちとも取れる(というかそう取っている人が多いように見える)が、おそらく真の意図は『そんな男を好きになっていた私も同じ穴のムジナ』という意味でありまたそんな思い出も忘れがたい青春の1ページとして同人誌の形で残す意図も含まれているのではないかと思う。なお過去の美しい(?)記憶や思い出をわざわざ言葉という劣化コピーの形で残すのが新海誠作品の読解的に正しい行いなのか、という議論はここでは置いておく。
そもそも論で言うと、自分は新海誠に会ってから新作を見るたびに(あるいは動画を見返すたびに)傷つけられてそれが快感になっている。そして「新海誠好きの元彼」の中には同類が数多くいるのではないかとも思う。成長した元彼が元彼同人誌を見て「こんな馬鹿なこともしたな、懐かしいなぁ」と心中悶え苦しみながらも穏やかに過去の自分、そして成長した自分に向き合う、そういった同人誌になるのであればウェルカムだ。ただ本当に馬鹿にされているだけの同人誌だったら後で泣いてしまうと思うので、どうか当時の愛情を少しだけ添えておいて欲しい。
自分は元彼同人誌が読みたい。そして忘れている過去の恥ずかしい思い出を掘り起こされて悶絶しつつ『あの頃』に浸りたい。きっと共感してくれる元彼もいると思うし、それを発信することで企画が前に進むこともあるのではないかと思う。もちろんそんな思い出は見たくもないというのであれば読まなければ良いし、そんなものが世に出ること自体が許せないなら反対の声を上げるのも自由だ。ただ今は自分たちの声が置き去りにされて無関係の人達だけで議論が進んでいるようなので、当事者として声を上げることが大事だと思う。
結果的に余計なお世話だという趣旨の記事になってしまったが、元彼の中には自分の気持ちを代弁してくれてありがたい人もいると思います。代わってお礼を言わせてください。ありがとうございます。
「新海誠好きの元彼」について少しだけ補足させてください。「新海誠好きの元彼」を定義することは元彼同人誌がやるべきだと思ったのであえて本文中ではボカしたのですが、それが「新海誠の男性ファン」とイコールで捉えられることは本意ではありませんでした(元彼同人誌炎上の根本的な要因も、「新海誠好きの元彼」が指す範囲のボタンの掛け違いなのではないかと思っています)。実際の「新海誠好きの元彼」が指す対象は「新海誠の男性ファン」よりも(今となっては)かなり狭く、あえて乱暴に定義するなら「新海誠初期~中期の作品が感傷マゾの性癖にクリーンヒットしてしまった人」でかつ「現実の男女関係にも感傷マゾの性癖を持ち出してしまう」ような人達のことを指すのではないかと思っています。なんなら新海誠作品に出会っていないが「新海誠好きの元彼」的な性質を持っている人もいるはずで、「新海誠好きの元彼」の「新海誠」とはあくまでも当時感傷マゾをしばき倒していた代表格としての意味しか持たないと自分は理解しています。(この辺りが同人誌作成過程の調査で明らかになると良いと思っています。)
そんな気持ち悪い、本質的には新海誠作品とあまり関係ない生物の呼称に新海誠の名前を使うのは失礼という指摘に対しては、まあ一理あるけど概ね当然の報いなのでは?というのが自分の偽らざる気持ちです。
立方体で構成されたレトロなグラフィックの、しかしどこまでも広がる広大なフィールド。ログインすると他のプレイヤーたちが作り上げた街があって、道は石で舗装され、各自の土地に自宅が、中心地にはでかい城が建っていた。
街から出ると広大な小麦畑。知識のなかった自分はダッシュジャンプで畑を荒らしながらひたすら走り、湧き潰し用の松明を勝手に拝借して人の手の入っていない土地を目指した。森を抜け、砂漠を抜け、誰かが乗り捨てたボートで海を渡った。
一際高い山があったので登ると、カルデラ湖のような地形が形成されていた。しかし雨が降り出して、もう真夜中で、空腹だしゾンビに追われてどうにもならない。地面に穴を掘ってシェルターにして夜を明かした。
暗い土の中から這い出すと、目の前にはカルデラ湖とその中心に浮かぶ小島。空がオレンジからスカイブルーにじんわりと変わっていく。やけに感傷的なBGMが鳴り出す。
心底、美しいと思った。
美麗グラフィックでもなんでもないカクカクの風景がなぜこんなにも心を打つのか不思議だった。俺はその場所に居を構えることにした。岩の壁を掘り、丸石で崖に埋まった豆腐ハウスを作った。
wikiを参考にしながらインフラを整え、ブランチマイニングを覚えてダイヤモンドを探し、他のプレイヤーが作ったゲートでネザーに迷い込んで全ロスした。
生きてるって感じがした。
俺にとっての「マイクラ」はこれなんだよな。
これをもう一回やりたい。
その後バージョンが上がるに従って馬が出てきたり木材の種類が増えたり、RS回路も複雑になっていろいろ自動化もできるようになって、モブも増えてマイクラの世界はどんどんにぎやかになっている。
最初は発表の度ワクワクしていたアップデートだったが、そのうちについていけなくなってマイクラ自体をあまり起動しなくなってしまった。加齢のせいか、飽きてしまったのか。
推しの誕生日に配信があったんだけど、私は一体何を見せられてるんだ…?って感じたのでここに書きます。
あんまりそういう配信とか見たことないから分からないけど、誕生日に配信するってことは、ファンからコメントで直接お祝いしてもらったりするのがメインだと思う。
個人で配信してるわけじゃない(所属事務所主催)からある程度のプログラムとか、コーナーとか、普通はあるよね?少なくとも、リアルイベントではそうだった。
配信の前に質問も募集してたし、なんか企画はあったんだろうな。多分。知らんけど。
でも実際に蓋を開けたら、直前のイベントの打ち上げみたいな内容でびっくりしちゃった。
そのイベントは何年も定期的に開かれていたやつだけど、推しの出演を最後に企画自体が終わるものだったから、名残惜しいのはわかるよ。でも推しの配信はイベントの会場(ホール?)からだったし、なんならそのイベントの主催者とか出てきて、思い出とか語り出して、いや私は推しの誕生日を祝いたいんですけど、って思っちゃったんだよな。
私がそのイベントに一回も参加したことがないから、思い入れが全くないし、周りが感傷に浸ってる様子に白けてたのもあるかもだけど、それやるならイベント主催で後夜祭とかやればよかったのに、とかすごくもやもやした。
しかも配信は有料なので、何を見せられてるんだ状態に拍車がかかったんだよな、なんでお金払ってまで参加したことないイベントの打ち上げ見なきゃならないの?お祝いさせてよって…
カメラの後ろではワイワイしてて、マジで打ち上げの最中に配信してたんだよなぁ。
主催者の人、推しに花束渡してたけどその後その主催者本人もお疲れ様ーって花束もらってて、そういうのは配信終わった後でやればいいのに、って悲しみさえ覚えた。
配信後の同担の反応が好評というか、まあ推しだから何やっても最高になっちゃうんだけど、誰も不満に思ってないみたい。そこに一人で文句言って水差すわけにもいかず、かと言って飲み込めなかったのでここに投げます。ぼやかしたつもりだけど読む人が読んだらわかるかも。
わかる。子供というのはセックスの結果自然に生まれるか、あるいは働き手を増やすという目的で生まれるかしかない。20世紀半ば以降、すべての目的がなくなってしまった。今はなんとなく惰性と慣例と感傷で生んでる。
是非は置いといてコスパだけで言うなら今は有史以来最も悪いね。戦後までは少なくとも5年育てれば使える一家の労働資源だった。その後も介護担当の役割はあった。今は何も無い純粋な金食い虫。日本はそれを選んだ。
自由を求めて社会を発展させてきたのにいざ自由になったら産まなくなって滅びようとしてるの最高に矛盾だな
社会的な圧力がなくなって産む動機がなくなり、それでも「可愛いから産みたい」という本能的な動機はあるものの、それも教育費の増大などで相殺されつつある
要するに、人間の行動の裏には常に「社会的な動機」と「感情的な動機」があるわけだが、そのどちらもが失われてしまうと、人は行動しなくなる
社会的な動機というのは社会からの圧力のことだが、忘れてはいけないのが感情も「圧力」だということ
「可愛いから産みたい」というのは自分で主体的に選択した感情ではなく、本能的に湧き出てきて私たちに行動を強制する一種の「圧力」
つまり感情を持っているということ自体が「強いられている」不自由な状況だといえる
だから、逆説的だが、本当の自由は「感情がない」状態ということになる
そう考えると、ほんとうの自由とは、社会的な圧力が存在せず、一切の感情が存在しない状態
要するに、「無」である