このエントリを作成している途中で「”です・ます”調で書くか”である”調で書くか?」という非常に良質な記事を見つけた。私のエントリは、その記事と比べれば全然文章について的を射ていない。そのことについてご了承願いたい。
高校の教科書に載っていたことなのだが、日本語で一般に「著者」と訳されている「auther」という英単語は、「権威」と訳される「authority」の派生語であるらしい。つまり、権威を持っていなければ書き手にはなりえず、同時に書き手は権威ある存在とみなされるのである。
こういう認識は、戦後の経済発展、さらにはブログや掲示板の普及を経た現代においては疑問に思う人も多いかもしれない。しかし、印刷技術が未発達だった時代においては一冊の本が非常に貴重な存在であっただけに、こういう認識が人々の中に少なからず存在していたのだろう。
そして現代でも、主にマスコミ関係者や評論家を中心に「authorityを持つものとしてのauther」という認識がいまだに存在するのかもしれない。まあ、考えてみれば文章を書いて人に見せるという時点で、読者に何か与えているわけなのだから、わざわざ丁寧語である必要性がないのではないか、とも思えないことはないのだが。
少なくともネット上においては、普段から「糞」とか「ワロス」とか連呼している人が他人を誹謗中傷したところであまり強い力は持ち得ないだろう。しかし、普段です・ます調で穏やかに言葉を紡いでいる人が、急に「これはひどいですね」とか、「あなたは最悪です」とか言ったら、急にその人が冷たい人に見えてしまうのではないだろうか?要するに、です・ます調では言葉のひとつひとつに気を配らないと、読み手が引いてしまう可能性があるのだ。
このように文章ひとつ書くのにいろいろな労力を費やすぐらいなら、です・ます調で書かなければいいじゃないか。そしてです・ます調の文章はなくなっていく。考えすぎか?
ネット上でです・ます調の文章を見かけにくい最大の理由はこれじゃないだろうか?例えば、
というふたつの文があったとしたら、どちらのほうがエロさが伝わってくるだろうか?また、
というふたつの文があったら、どちらのほうがひどいように聞こえるだろうか?
基本的に、敬語には尊敬や謙譲といった、目上の者への敬意以外の感情がそもそも要請されていない。だから、感情を相手に伝える際には、非常に不便なのである。
もちろん、です・ます調で優れたエントリを書けるブロガーの方々もたくさんいる。しかし、そういう方々はフォローや解説が上手い場合が多い(そうじゃないと、かえって冷たい人に見られてしまうことは上述の通りである)。そもそも文章が上手くないと、です・ます調で表現し続けるのは難しいだろう。
以上、「です・ます調の文章が少ない理由」を3つ述べてみた。しかし、です・ます調が文章からなくなることはないだろうし、使っている人は皆それぞれです・ます調を使う理由があるから使い続けているのだろう。第一、私も増田の外ではです・ます調である。最後に、です・ます調のよさについて検討して終わりにする。
まず、やはりだ・である調よりも穏やかな印象を与える。解説や紹介なんかは、です・ます調のほうが読者にとって入り込みやすいだろう。
また、コメントを通じてのコミュニケーションをとりやすいというのもひとつの利点かもしれない。基本、ブログの更新はです・ます調オンリーでも、だ・である調オンリーでもできる。しかし後者の場合、コメント返信や読者へのお願い、尊敬する人物について述べる際などにもだ・である調を通すと、偉そうな人に思われる危険性がある。かといって、だ・である調とです・ます調を使い分けると、一貫性がないと思われるかもしれない。その点、です・ます調ならそういう問題が少なくて済む。もっとも、「書くエントリが制限されがちになる」という最大の問題点は解決されないが、です・ます調で通す人は、そう偉そうなことや誹謗中傷を行ったりしないのだろう。だからです・ます調で文章を書き続けられるのだと思う(ただし、私は結構です・ます調で誹謗中傷を行っていたりする。増田では150users超えをしたことがあるのに、ブログのアクセス数がさっぱりなのはそのせいか?)。
日本語で一般に「著者」と訳されている「auther」という英単語は、「権威」と訳される「authority」の派生語であるらしい。つまり、権威を持っていなければ書き手にはなりえず、同時に...
です・ます調でも感情を伝えるには十分だと思います。例えば、 こんにちはこんにちは! 今日はこんなものをみつけました!! これは最高にエロいです>< のような文章。自分は...