はてなキーワード: 1899年とは
国立社会保障・人口問題研究所が発表している、1899年から2006年までの妊産婦死亡率のデータがこれ。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2008.asp?fname=T05-30.html
妊産婦死亡率とは、出産10万件当たりで、妊娠中または出産後42日未満に、
妊娠や分娩が原因で死んだ人の数。
表を見ればわかるけど、21世紀に入ってからも、1990年代と比べてさえ、妊産婦の死亡率は下がっている。
増田が何年くらいに生まれたかは知らないけど、仮に1980年前後の生まれだとしたら、1/4になっている。
自分のカーチャンが自分を生む代わりに死んだであろう確率の1/4を、
「少なくない確率」と思うかどうかは個人の自由だけど。
(言い方次第なので、「出産10万回あたり5回死にます」と言われれば、怖いかもしれない)
だから、高福祉国家に行けばより死ににくいというものでもない。
結局、「ごくまれな事例を取り上げる」ことが目立ちすぎているのかもしれないね。
たしかそれって、「詭弁のガイドライン」にあったような気がするが。
著作権関連調べて昔驚いた話。
JASRACのビジネスモデルはドイツ人詐欺師から学んだものだった!
1931年に、旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが、主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立した。そして放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。
日本は1899年にベルヌ条約に加盟し、著作権法も施行されていたが楽曲を演奏(いわゆる生演奏の他に録音媒体の再生も含む)するたびに使用料を支払うという概念は皆無であった。プラーゲの要求する使用料が当時の常識では法外であったことや、その態度が法的手段を含む強硬なものであったことから、事実上海外の楽曲が使用しづらい事態に陥った。日本放送協会は契約交渉が不調に終わったことから1年以上にわたって海外の楽曲を放送できなくなった。
一方でプラーゲは、日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができず、日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。
この事態を打開するため、1939年に「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)が施行された。著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るというもので、同年 JASRAC 設立、翌年1940年に業務が開始された。これに伴いプラーゲは著作権管理業務から排除され、同法違反で罰金刑を受けて1941年離日した。
これら一連の事件は「プラーゲ旋風」と呼ばれ、日本における著作権の集中管理のきっかけとなった。
こうした経緯から、文化庁は JASRAC をはじめ4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めなかったので、音楽著作権の仲介は JASRAC の独占業務となった。
ドイツ人の先輩からタカリのシノギを奪い取ったとかそんな感じの話。