はてなキーワード: プラーゲとは
著作権関連調べて昔驚いた話。
JASRACのビジネスモデルはドイツ人詐欺師から学んだものだった!
1931年に、旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが、主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立した。そして放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。
日本は1899年にベルヌ条約に加盟し、著作権法も施行されていたが楽曲を演奏(いわゆる生演奏の他に録音媒体の再生も含む)するたびに使用料を支払うという概念は皆無であった。プラーゲの要求する使用料が当時の常識では法外であったことや、その態度が法的手段を含む強硬なものであったことから、事実上海外の楽曲が使用しづらい事態に陥った。日本放送協会は契約交渉が不調に終わったことから1年以上にわたって海外の楽曲を放送できなくなった。
一方でプラーゲは、日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができず、日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。
この事態を打開するため、1939年に「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)が施行された。著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るというもので、同年 JASRAC 設立、翌年1940年に業務が開始された。これに伴いプラーゲは著作権管理業務から排除され、同法違反で罰金刑を受けて1941年離日した。
これら一連の事件は「プラーゲ旋風」と呼ばれ、日本における著作権の集中管理のきっかけとなった。
こうした経緯から、文化庁は JASRAC をはじめ4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めなかったので、音楽著作権の仲介は JASRAC の独占業務となった。
ドイツ人の先輩からタカリのシノギを奪い取ったとかそんな感じの話。
「ピアノ演奏で著作権侵害を繰り返した飲食店経営者に有罪判決」というニュースに関連して、「いい加減にしろ、JASRAC!(ピアノバーに有罪とは‥)」という記事が書かれている。割と長いエントリなのだが、注目して欲しいのはこの部分。
問題の店は検索すると「居心地のいいパブ」といったブログも見かける。ピアノの生演奏が聴ける店って少ないから、ファンがそれなりにいたのだろう。ただ、33席のこじんまりした店だからそれほど儲かっているとは思えない。
著作権使用料は平均で換算すると月7万円(!)。部外者には判断しにくいけど、ライブハウスとして客から入場料を取るようなシステムでないと、月7万円払える店なんてあまりないんじゃないか。
つまり、JASRACに管理曲の使用量を払っていたら、店が継続できない可能性があるということである。下手をすればJASRACのせいでたくさんのバーがつぶれてしまう。
しかし、今度は「著作権料気にせずレッスンしたい ダンス音楽CDの自主制作相次ぐ」という記事のこの部分をよく読んで欲しい。
JASRACは「ジャスラック管理外の曲のCDだけでは顧客のニーズを満たせず、ダンス教室の営業が成り立つとは認識していない。ジャスラックの管理楽曲を使用する場合はきちんと手続きをとって使用してほしい」としている。
横から見ていれば、「JASRACにお金を払っていたら営業なんてできるわけない」ように思えるが、JASRACのほうは「JASRACの管理楽曲無しでは営業できないだろう」と言う。なぜこんな矛盾が起きるのか?
答えは簡単である。「金よこせ」。そのためだけに小学生でもわかるような矛盾を平気でスルーしているJASRAC。そんな団体に、著作権の管理を任せておいていいとは、到底思えない。
しかも、JASRACは「著作権を管理するのが主な役割なのではなく、著作権料を徴収することが主な仕事である」、という見解もある。その根拠は、「曲数多過ぎ審査フリーパス、盲点ついた阪神応援歌事件」という記事である。元はドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが著作権をたてに横暴な振る舞いを行った「プラーゲ旋風」に対抗して1940年に設立されたJASRAC。今は彼自身が、プラーゲと化しているかのようだ。