はてなキーワード: 東京弁とは
ついでにいうと東京弁と江戸弁も微妙に違うから、べらんめえが東京弁というわけでもない。
何が違うと具体的に聞かれると困るが23区育ちの俺からすると大分違う。
東関東と神奈川の人は、標準語を話してる分にはほとんど差がわからない。北関東の人は大抵すぐわかる。標準ぽいのに語気が荒く、聞いていて落ち着かない。一番田舎者だなーと思うのがこのへん。
のが理由なわけではない(少なくとも私に関しては)。関東の人が標準語だと称するその言葉には、明らかに東京弁が混入しているからだ。彼らは自分が標準語を話していると信じているが、実際には関東弁、東京弁でしかない。方言なのだ。標準語をきちんと話すことができている人間など、NHKのアナウンサーくらいではないか、と思う。自分も方言を話しながら方言を否定するその姿勢を見ていると、少し面白く思ったりもする。
気づいた。関西人って、共通語のことを「東京弁」って表現するね。
よく言われるように、元々共通語をしゃべっている人って、さほど多くないんだよ。東京生まれの東京育ち、あるいは一度東京圏で過ごし共通語を使うようになった両親を持つ子ども、この辺だけ。東京のことばというよりは、自分たちだけのことばを持たない人がとりあえず使う言語、という感じ。共通語イコール東京というイメージを持っているのは、それこそ大阪圏の人だけだと思う。
共通語を使う人は、とりあえず周囲で使われていた言語を使ってるだけだから、あまり言語に対する執着というものがない。関西弁を含む方言を否定するのも、「みんなで共通のことばを話した方が分かりやすくて便利なのに」という素朴な発想から出ていて、そこに押し付けって気持ちは存在しない。何せ、自分の話していることばも借り物だからな。わざわざ「押し付け」ようなんてモチベーションはそもそも湧かない。
で、自分(たち)にことばに対する執着が薄いから、特定の方言を話したがる気持ちと言うのが理解できない。「共通語を話せよ」と命令形で考えている人ってのはあまりいないで、「なんで共通語を話さないの?」という疑問系の気持ちを持っている人が多いのだと思う。
(アンチ関西弁の人も、共通語が好きなのではなく、単に関西弁が嫌いなだけな事が多い。一方、アンチ共通語な関西弁ユーザの主張を見ると、共通語への嫌悪よりも関西弁への愛着の方が強いように思える)
もしかすると、ことばに対してそこまで熱くなれる、というのは、方言を持たない共通語ユーザにとっては羨やむべき事なのかもしれない。まあ、そもそも「言語に執着する」という概念自体理解できないから、羨ましいと感じる事もないのだけれど。
東京の人が大阪で標準語でもなく、大阪弁でもなく、東京弁でずっとしゃべってるなら、融和しようって気がないって見なせばいいじゃん。
東京の人が大阪に住んで、徐々に関西弁を話すのはいいことだ。周囲に溶け込もうとしているわけだからね。
関西の人がそれが嬉しいっていうなら、どうして自分たちは同じことが出来ないの?
いや、嬉しいとは言わんてw
いやもちろん理性では「微笑ましいなぁ」というのは理解しとる。けど感覚としては「きしょっ」と思てるはず。小学校とかやったら、確実にいじめの対象やで。
まぁ「東京モン」ってだけで詰みなんやけどな。東京弁しゃべっとったら「何気取っとんのや」言われて、無理して関西弁しゃべったら「きしょいんじゃボケ」いわれる、っちゅー。まぁしょうじきエセ関西弁ほどむかつくモンもないしな。
その、なにか特定の「語」が好きじゃないって感覚がわからんし、大阪の人でいやなのはそこだ。
いや、「東京弁」が嫌いなわけではないんやって。東京弁が「標準語」とか言ってデファクトスタンダードを押し付けてくる姿勢が嫌なんやって。共通プロトコル? アホか。口語なんて意味通じてへんでも進行するし機能するわ。口答指示の軍隊とか以外な。常識やん。
というわけで、
つ鏡
ほやでこれはエスニシティの真正性、エスニックアイデンティティの問題なんやな。
その前の文からの続きでしょ、これ。
感情が先にたって、この文、書いてるでしょ。
他の地域の人は標準語をしゃべってるって思われているのに、なんで関西人だけがっていうもともとの質問がそうでしょ。
そういう実態がないのに、こんなに広く認識が共有されるはずがない。
東京の人が大阪で標準語でもなく、大阪弁でもなく、東京弁でずっとしゃべってるなら、融和しようって気がないって見なせばいいじゃん。それと同じことを、関西の人もしてるだけってこと。
一部の人ってことにしたいならそれでもいいけどね、大阪人の一部はまた絶対数が多いから。
東京に限らず、地方のどこでも大阪の人は大阪弁で通している[ことがおおい]よね。
そりゃま、直している人もいるだろうけど、そもそも直す気がない人が多いのはここを読んでいてもわかるじゃん。
ただし日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。
なんで、話し言葉に関しては【標準語なんてものは存在しない】、でいいんじゃないのかと。~じゃない、だって東京弁だしさ。使ってるでしょ多分。ここで、東京の人間は標準語を話しているんだからどの地方にいってもいつもの言葉でOK て主張してる人も、いろんな地方のいろんな方言を知らない内に使ってると思う。でも自分が話している言葉は標準語だと思ってるのではないかと。
ええっ、「舌を動かすのをできるだけさぼっているような感じ」だからという理由でよい気持ちがしないの? それはおかしいよ。
たとえば僕は長崎出身なのだけれど、「れ」を「い」に置き換える方言の特性があって、「俺」を「おい」、「これ」を「こい」などと言っているうちに、ラ行が上手く発音できなくなってしまった。今は東京に住んでるけど頻繁に噛むし、なかなか直らないし、同じく長崎出身の東京在住も「俺は慣れたけど決して言いやすくは無い」と言ってる。もしも「れ」を「い」に置き換えることが大阪弁並みに東京で市民権を得ているんだったら、僕は迷わず言いやすい方言の方を選ぶよ。あと、長崎も含めてあまり発展していない地方では関東の喋り方を「すかした喋り」としてあまり快く思わない場合すら少なくないんだけど、だからといって関東の人間がそういった地方に出向いた時に、本人にとっては舌の疲れる地方の喋りにわざわざ合わせることはしないでしょ。少なくとも表向き失礼にはならない程度に受け入れられていることがわかっている、自分にとって最も舌が疲れない関東の喋り方で話すはずだ。
状況に応じてその場で受け入れられる喋り方があって、その中から最も舌の疲れない言葉を使うのであれば、それに何の問題があるのかな。
そんなことより、言葉を取捨選択して会話をしていく中で、最も思考をする必要が無い刺激的でわかりやすい言葉ばかりを何度も何度も使いまわしてしまうことにこそ僕は疑問を感じる。君の挙げた言葉は、僕が見る限りは「あまり考えなくていい言葉」だ。確かに舌を動かすのをさぼっているかも知れないけどそういう理由で言葉を選ぶことは既に書いたように自然なことだし、それに「あまり考えなくていい言葉」の中には舌が疲れるものだって沢山ある。恐らく若者にとっては、多少舌がさぼれるとか疲れるとかそんなことより、思考を止めることの方が重要なはずだ。周囲に迎合するために同じ言葉を選択し、何度も刺激を味わうためにその言葉を繰り返す。自己を持たない若者はそうやって生きている。これこそが本当の問題なんじゃないかな。
繰り返すけど、舌がどうこうなんてのはその場で反発が発露するようなことでなければどうでもいいんだよ。
- ――さ(「だ」と「だよ」の間くらいの表現?) 「これ? 漫画本さ」(気障表現の「さ」と違って下がり気味に発音)
- 応用系?:――さね(「だね」?)
これも長崎で使う言葉だなあ。おとなりの佐賀は「さね」は使っても「さ」は使わないので、長崎の人間が「さ」と言う時はまるで東京弁(田舎から見たら方言なんだよ)の気障表現による「さ」のように聞こえて違和感を覚える、と言われたことがある。ちなみに長崎弁の「さね」は「さ↓ね↓」であって、別の地方のものと思われる「さ↑ね↓」とは発音が違う。そっちは群馬弁だと思われる。「さ」は書いてある通り下がり気味の発音。
ついでに他のも調べてみた
共に北海道弁だと思われる。
- ――やよ(「だよ」と同じ? 関西弁由来?) 「そうなんやよ」
石川弁だと思われる。
- めっさ