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他国の食文化に口出すな!『ザ・コーヴ』 の波紋 「アンカー」より
ttp://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid798.html#sequel
「アングロ・サクソン民族は自らを地球の最上位に据える。次に彼等以外の白人がくる。その次には彼等が自分たちと同じ権利を認めたい動物がランクされる。類人猿、犬、鯨類であろう。その下に有色人種を置く。日本人が1ランク上位の鯨類に手をかけることは倫理に反する、ということになる」
〈中略。以下、1978年6月のロンドンにおけるIWC年次会議での出来事〉
会議の最終日の6月30日午後、会場のマウント・ロイヤル・ホテルに反捕鯨団体の活動家約30人が乱入、会議場の中央のスペースに座り込んで集会を開いた。
日本、ロシアなどの捕鯨国に対して弾劾文を読み上げ、それに対してもっとも反捕鯨の行動をとったフランスに表彰状を手渡す。集会が終了して退場する際に、信じられないことが起こった。反捕鯨団体のメンバーたちが、瓶につめて持っていた赤い染料水を日本代表団に向かって振りかけたのである。
「マーダー(クジラ殺し)」「バーバーリアン(野蛮人め)!」「これはオマエたちが殺したクジラの血だ!」
こんな罵声とともに振ってきた赤い水は日本代表団員の頭、肩、膝に、あたかも本物の血痕のように染み付いた。
日本経済新聞社の論説委員長を務めたこともある、当時社会評論家の故大和勇三はオブザーバーとして取材をかねて会場にいたが、帰国後、講演のたびに次のように語っていた。
「彼らはロシア、ノルウェー、アイスランド、スペインなどの白人捕鯨国の席には目もくれず、唯一の有色捕鯨国である日本代表団にだけ向かって赤い水をぶっかけた。人種差別に他ならない。アメリカが第二次大戦中、日系人だけを収容所に入れ、原爆を交戦国の中でイタリア、ドイツではなく日本に落としたのと通ずるところがある」
それは、オナニーや楽しみのための性行為を断ってしまう、それだけである。
僕は、随分昔から同性愛者にあこがれをもっていた。
彼らは異様に生産的である。母集合の少なさに反して、仕事や、芸術という分野にとてつもないアウトプットを残す。
ミシェル・フーコーなんかもそうだし、ケインズなんかもそうだ。
音楽や芸術の面だとさらに多岐に渡る。最近じゃRufus Wainwrightなんか凄まじい迫力のある曲を残している。
いつだって僕はそれを疑問に思ってきたし、自分もそうありたいと思いながらわずかながらの人生を生きてきた。
しかし、同時に、それは単純な憧憬、もしくは彼らの仕事に対する尊敬であって、決して自分は同性愛に傾くことはないこともわかっていた。
僕はやっぱり同性のハダカを見ても性的に興奮することはできないし、それよりも女性の裸体を愛撫しているほうがよく反応する。
ある意味で幸福でもあったろう、と思えるが、それは同時に喪失でもあった。
自分の才能のなさ、を呪うこととはすこし質の違った喪失感である。(※自分に才能があるとは到底思えないが、それとは違う)
それはたぶん、アメリカの白人が黒人の文化・芸術に抱く憧憬と喪失感によく似たものである。
エミネムやバーバーショップのトロイ・ギャリティのように、同質化することを望むけれど、自分自身を完璧に同質化させることはできない。
また、詳解はしないけども、今のコンシューマゲームに関る人々が、昔のコンソールのゲームをこよなく愛する感情によく似ていると思う。
そうして、ここまで考えたときに、ふと気づくことがあった。
数ヶ月前のことだ。
人間は、どんな状況においても、「子孫を残す」ことを求める傾向があると思う。たぶん、それは生物だからだろう。
人間が歴史上絶えて久しかったことなんてなかったわけだし、広島や長崎にだって木が生えて人も生殖したのだ。文化すらも残ってくれた。
生物だからこそ、危機に陥ったときは性交における子宮定着率が高まるのだろうし、スライムモルドだって特異な形態をとってのりきろうとするわけだ。
そして、同性愛者は生物学的には常に危機に瀕している。あたりまえだが。
だからこそ、彼らは自分の遺伝子を生物学的とは違うベクトルで残してゆく方法を無意識的に模索しているのではないか。
それこそ、ロレンスがいった
ぼくはどうして偉大な人物とされるほとんどすべての人々が、それを認めているか否かに関わらず、同性愛に向かう傾向にあるのか、そしてその結果女性の身体よりも男性の身体をいっそう愛するようになるのか---確かギリシア人がそうだったと思うのですが---、その理由を知りたいのです
の回答なのではないか。
実際そう考えてみると、合点のいくことは結構多い。
偉人ばっかだして恐縮なのだが、宗教的であれ、個人的にであれ、性活動を制限していた偉人というのは多いのである。
カントだって童貞だし、ゲーデルやヒルベルトだってそっちの執着はあまりなかったらしい。
そういえば分裂感違い君もそんなかんじのエントリ書いてた記憶がある。オナニーやめたとかなんか。※切込隊長もそうだったね
また、生物学的な生殖行為への渇望といったものから得られる感情もよく似ているといえば、性行為に貪欲すぎた人とかも挙げればキリがないほどにいる。
ここらへんだったら、専門外だけど歴史上の日本人にもとてもとてもいそうだ。※たぶん宗教的なもんが薄いから制限してた人が少ないんだろう
現代という時代は、恐ろしい時代である。
それほど才能のない僕らが、才能あるマッチョたちと対等に闘って生きていかなければならない。
そうでなければ、グローバリゼーションの中の雁行型経済発展に従って、
インドや第三国の才能ある外国人労働者におまんまを持っていかれてホームレスになってしまいかねない世界である。
僕は、この時代だからこそ、提言したいと思う。
我々は、生まれつきの才能がない僕らは、持てる思考回路をせめて有意義なものに使わねばならぬのでないか。
それを、オナニーや、楽しみのためのセックスや、男女関係の機微に帰着させるのはあまりにも軽率ではないか。
そこに脳がハマりこんでしまえば、たぶんその生殖行為こそが生物的にはあるべき姿だから、思考はそこから抜け出られない。
悪いわけではないんだろうけど、才能がない僕のような人間には、すこし損ではないか。マッチョになってからでもセックスはできる。
僕の提言はこうである。
「そして頭のキャパシティから性行為と男女関係を抜け」
たぶん、これだけで、脳は今与えられている生殖本能に危機があり、と感じるはずである。
そして、脳はそのとき脳内にある違う意味での生殖や、生殖本能につながる能力を伸ばそうとするのではないだろうか。
生まれついての同性愛者ほどの生産性は得られないかもしれないが、少なくとも、脳を使う仕事に従事している人には、少なくとも効果はあるのではないだろうか。
これは余談だが、肉体を酷使する競技に従事している人は、性行為は試合前日には絶対にしないらしい。
友人に才能ある競輪の選手がいるのだが、彼は「試合前にヤったらぜったいあかん。負ける」と言っていた。
試合前にヤったらどうなったか?そのとき、あまりの興奮に生でやったらしく、そのときの一回で子供が授かったのである。
たぶん、これも、ケースひとつだけど、人間の活動は生殖と深く関っている証明になるのではないだろうか。
まるで、イアン・マッケイみたいなハードコアの意見になっちまった。
でも、彼らだって、ありえないくらいプロダクティブだよね。