男友達が「女の子紹介してよー」とうるさいのでフリーの女友達を紹介した。
飲み会セッティングしてあげて、お互いそれなりに話は弾んでて、
女友達の方はまんざらでもない雰囲気だったのだけど、男の方はなんかイマイチ消極的。
彼の好みは小柄でおとなしいタイプだけど、彼女は活発なタイプだったからみたい。
…って誰でもいいとか言っておいてお前!贅沢言える立場か!
「あんた彼女居ないんだからとりあえずつきあってみればいいじゃん!
付き合ってもみないで何がわかる!そんな選り好みしてる場合か!
そんなんだから30過ぎてもd(ピーーーー検閲)」
と思わず言いたくなって(言ってませんよ)
「ああ、これって派遣切りで仕事ないって言ってる人を叩くのとなんか似た構図…?」
となんか暗い気分になった。
http://www.youtube.com/watch?v=EPT0azxWT-o&hl=ja
3/18DVD発売だな。
誤報だったときの騒ぎも含め、裏側は裏側なんだよね。
最近の某ウイルス騒ぎもそうだけど・・・誤報って結構あるじゃん?
コメント欄って結構無責任だから、事実無根の時に、謝罪せずに逃げ切られたり、そもそも、嫌がらせ、誹謗中傷もあるしね。
表で騒がれると、正直、営業妨害。ってのはあるとおもうよ?
かつ、センチメンタルな気持ちになっている。
1ヶ月前、友達だと思っていた、友達だとしか思っていなかった、男性に、告白された。
もちろん私は断った。恋人という関係になるなんて、考えられなかったから。
20年にも満たない人生で、告白された経験なんて、そんなにボロボロあるわけではない。私には免疫がない。自分に魅力がないとは思っていない。
そんなことはどうでも良いのだけど、それから。
ねえ、避けたり、前ほど喋ってくれなかったり、しないでよ!
私、友達としてはアナタのこと、大好きだったのに!
毎回こうやって告白をお断りするたびに、こんなことなら付き合っておけばよかったのかな、と思う。2ヶ月、3ヶ月後くらいに。
失恋ソングみたいなのを聴くたびに、私がしょんぼりすんの。
あー、こんな気持ちにさせてしまったのかな、とか、相手の気持ちを考えようとしすぎちゃって。自分が相手の立場にたったときの気持ちとか、想像しちゃって。全部ぜんぶ、妄想っちゃあ妄想なんだけど。
なんで私がこんなしょんぼりしなあかんねん!!!あほ!
明らかに利益目的で、不必要な薬を出す、というか、とりあえず、薬を出しちゃう医者も多いと思いますけど?
明確な悪意があるほうがまだいいよ。
代理店金取りすぎてのは事実だとして、適正な価格てじゃあ、どうやって決めるのかなあ。効果測定?でも、効果測定ってどういう方法で、どこにその基準を決めるのかで揉めると思う。それに、もっと根本的なことをいうと、広告とかCMとか単体の費用対効果なんか怖くて誰も測りたくないんじゃないかな。申し訳ないけど、あれってゴミみたいに大量に、色んなやり方で露出させるから成立する商売であって、単独の「広告」なんて成立しないように思う。
一定以上の閾値を越えてないものと越えているものでは、当然「効果」の基準も変わるだろうし、その場合、総体としての「適正な価格」とかどうやって客観性を持たせられるんだろうか。もちろん、既にあるものの中で役に立つとかより良いとかは語れるかもしれないけど、そもそも商品としての広告それ自体の価値なんて状況との相関関係の中でしか語れないし、そんなものどうやって測れってんだ。学者にしろ専門家にしろ、理屈はたくさん提出してくれるけど、あれって一般論でしかない上に、すでにそれが成立している状態からしか始められないから、そんなものを頼りに「効果」と「費用」の関係を問われても困る。
正直な感想を言えば、客観的な測定とか絶対無理。業界でもいいし、ビジネスモデルでもいいけど、確立された状態から逆算して一般論として述べることは出来ると思うけど、それを事実と一緒くたにするのはちょっと俺には出来ない。効果って言われてもな、というのが本音だ。企画書とかプレゼン資料の中でなら有効/無効は問えるだろうけど、ああいうのは最初から目的もターゲットも決まってるから意味があるんであって、相対的な客観性でさえも厳密に証明するのは困難だと思う。
個人的には、という言い訳をしたうえで言わせてもらえば、あらかじめ売るものとターゲットを決めないでビジネスの有効性とかなんて問えないし、いわゆる方法論的な理屈それだけで成立するほど単純なものじゃないから、何の前提もなく「効果」とか言われても正直そんなものは測れない。…て言えれば楽なんだけどなあ。
企画書でこうすればこうなるみたいな話をするのは、「ある企画を成立させるために有効な方法」ということであって、その場合ターゲットはクライアントでしかない。クライアントがそれに価値を見出すとしても、そうするための企画書やらプレゼン資料やらなんだから当たり前。それは世の中の話でもないし、ましてや「世界」とか「社会」の話じゃない。会議室の狭い空間の中で、相手と自分の曖昧な合意の下で始めて意味を持てるだけ。もちろん、クライアントだって馬鹿じゃないからちゃんと読む人は読むけど、それって単に「企画書の読み方」とかそういう話でしかない。
全てが嘘だとは言わないけど、広告の客観的な効果とか厳密に問いだすときりがない。大半の人間はそれが分かってるから、そんなものに手を出さない。でも、世間じゃ何故か広告論とかマーケとか人気。大学でコンテンツビジネス(そもそもこの言葉がすごく胡散臭い)とか学んでる連中にいたっては、本気で理屈を信じてたりしてもう…。個人的にああいうのを客観的事実みたいに語られだすと、正直、引く。客観的合理性があるのは、単に商売が成り立ってて、現にそれでやってられるから。別にそれが間違いだとか、ましてや道徳的にどうこう言いたいわけじゃないけど、価値とか有効性とかって表現を使わざるを得ないのはそもそもが物凄いたくさんの前提の上に成立するものでしかないし、逆にいえば極めて限定的なかたちでしかそんなもの成り立たない。と思う。いや、ほんとに。
理論家に期待してるのは商売に役立つことであって、客観的事実の証明じゃないからいいんだけど、そういうのって一人歩きしだすから怖いよ。そのうち、自分でも半分くらい信じ込みはじめるし。経験的な蓄積から帰納して理論をつくるのはいいけど、帰納していく過程が証明できんのか、俺には疑問。でも、きっと周りは素直に「市場」とか信じてるんだろうなあ。仕事だからやってられることをうっかり信じこみはじめると自分の首を絞めかねないから、早めに色んなことに見切りをつけておこうと思う。そうしないと、なんか手酷い失敗をしかねないし。
学生は話半分で講義を聴いてた方が身のためだよ。役に立つのもあれば、立たないのもあって、即座に学問上の理屈として間違いなわけじゃなくても、少しも事実でないことなんていくらだってあるんだから。ま、プレゼンで色つけるのには有効だけどさ。でもな、本当のことを話すとそれって対クライアントの関係で成立してるだけだから。向こうの立場が明らかに強くかったりすると、相手がちょっと勉強して強気に出たら、単なるレトリック程度じゃ一蹴されておしまい。((でも、それだって「説得力」て話でしかないから、事実とは関係あんのか不安に思う。その辺はディベートとかと同じ。あくまで、相手にあわせてどういうレトリックを使えばいいかでしかないし、逆にいえばそれを越えて悩むのは不毛。))
老婆心で言わせてもらえば、一生懸命なのは分かるけど、そういうときに仕事上の作法としてどういうレトリックを使えばいいかだけを身に付けて、自分の「信仰」を守ろうとするのはやめたほうがいいよ。あと、仕事で学習したことを私生活に持ち込むのは見てて辛いからやめて。個人個人の主観とか経験とかを超えて共有されているように見えても、それは単に業界的な約束事だったり、下手をするとその職場でしか通用しないものだから。そういうのを使って優越感に浸りだすと、個人的には「終わってんなあ」という感想しか抱けない。
何でXXは粘着されているのか
あれからまだ十日くらいなのだとふと気づいた。
意外と日々の暮らしは平穏だ。思い出して激しい怒りにかられる瞬間もあるけれど。
以前の失恋のように、焦がれるような気持ちにはならない。
それくらい、私にもあまり気持ちがなかったんだと思う。
けれどもなんだか地味にずっと、無価値感がこびりついていて死にたい。
信じていい人、頼っていい人にぞんざいに扱われたのだという事実に苛まれている。
無防備にいきなり全て開示したら傷つくだけだというのは経験上知っていた。
相手にとってもそれは重い。
だから少しずつ、にしていたつもりだったんだけれど。
主観を抜きにしたって、何も頼っちゃいないくらいの状況だった。
でも、「君のことを受け止めきれない」と言われた。
幸せになりたかった。
けれども結果はああ、どうだ。
この経験もいずれ私の糧になると、わかってはいるけれど。
育たぬ子だったんだ、と。
今書いてて気づいた。
まだすげえ傷ついてるんだ。
当たり前か。
まだ十日くらいだ。
時が解決する。
また独り。
話を聴いてくれた友だちはたくさんいる。
ひどいねと共感してくれたその誰もが、長い付き合いの恋人といる。
でも大丈夫。
私は大丈夫。
独りで生きていけそうと思われてる通り、独りで生きていくわ。
便利な言い回しですね。