2008-11-18

たぶんしってるとおもう

14年か15年前くらいだとおもう。高松のちいさなパソコン専門店IBMのAptivaというPCを衝動買いした。それがぼくのPC生活の始まりだった。30数万円して、そのうえデスクトップだった。でかかった。

当時はテレビCMでさえ、インターネットという言葉はとくに目にしなかった。ぼくはインターネット、という言葉は知っててもそれがどんなもので、どんなことができるのかほとんど無知だった。

インターネット接続にはダイヤルアップという方法があるらしく、マニュアルを片手に、帰省していた姉といっしょに接続を試みた。どうやらクレジットカードが必要らしく、当時クレカを持っていなかったぼくは一時的に姉のカードを借りて接続を試みた。

契約はすんなりと終え、ガチャピーピー、ファックスのような音がパソコンから聞こえる。静かになって、そこからなにも始まらない。姉とぼくのふたりは???の中にしばらくいた。ただ1分数十円というお金がこの間もかかっているということだけはわかっていたので、もったいない、と思い、とりあえず切断した。

いろいろ試行錯誤して、インターネットをするには接続とは別にインターネットエキスプローラーというソフトを立ち上げなくてはならない、ということがわかった。

次は接続ののち、IE(当時はこんな略しかたさえもちろん知らない)を立ち上げた。Yahoo!が開いた。とてもシンプルなページあった。検索、というボタンを押すのに、キーワードがいったいなんだったのか記憶がない。そこからなにをしたのか、記憶がない。ゆいいつ、姉ががっかりしていたのだけは覚えている。インターネットってべつになんかができるわけじゃないわけね、そんなかんじの振る舞いを姉はした。

あれから10年以上インターネットをしているわけだけど、今やネットは生活にはなくては困るくらいに利用している。かりになかったとしても、たぶん、そんなに困りはしないんだろうな、ともおもったりする。

今日、昼のきゅうけいのときにふと思ったのは、インターネットはあらゆるものをShareする場所なんだな、ということだった。情報・知識をShareして、データShareして、そして、ぼくだけじゃないだろう、人は人生の一部までもShareしている、ネットを使って。ぼくの恋愛のいくつかはネットなくしては語れない。なければぼくは仙台にもいかなかっただろうし、誰かの手を握ることもなかったとおもう。

ネットのまえにいる時間が減って感じるのは、いつでもつなげられるという安心感さえあれば、とくに今つながってなくてもいいな、ということ。これまでは何かのきっかけにネット存在していたんだけれど、これからはそのきっかけをここに依存することはそんなにないだろう、と。

向こうから舞い降りたり、転がっていればわからないけど、きっかけをこちらから探しにでかけることは、たぶん、ない。

書店への出かけ方も知っていれば、本の選び方も知っている。そんなかんじで、人生の選び方も少しだけれどわかってきたような気がする、やっとこの年齢になって。

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