俺の頭いい友達も「すごいなー」っていったら泣きそうになってた。男だけどね。やっぱつらいんでしょう。特に馬鹿に言われると。
なんかけんか腰な会話ばっかになってません?なんか傍から見てて心肺になってきたよ。
とりあえず深呼吸して、愛想笑いで良いから笑顔を作って、それからもう一度画面を見てみて。
そんな熱くなるようなことじゃないでしょ?
で、できれば和やかな話題を書き込んでみて。
あなたの言いたいことが、とてもよく理解できる増田が、一人ここにいるよ。
自分がプライド高いのか低いのかわからん。
理系院生だが、「こんな発表じゃいかん」とか、「こんなレベルじゃいかん」と思って、研究や論文書きが何カ月にもわたって滞ってしまった。そういう学生は、見渡す限りたくさんいる。
しかし・・・
自分が、そういう学生と違うのは、締切間際になると、「もう、これ、出さないよりは出した方がましだ」、「ひどい出来で鬱になるけど、発表しなければ留年だから発表した方がましだ」と思って、締切直前にうぉぉぉーーーっと頑張って仕上げてしまう。
そうして、「こんな短時間で何とかなった」というのが、歪んだ自信になる。そういうことを繰り返してきたが、もうやめよう、と思う。月曜日に、そう決心したはずだが・・・やっぱり、研究室内の文献紹介スライド、まったく評価の対象にならず手を抜けば1日でできるものを、「いや、これじゃ理解したことになってない」、「いや、これじゃ読み込みが足りない」と、一生懸命作ってしまって、色々あって、もう金曜日。
評価の対象にならないものは、もっと手を抜くべきだと分かっているのだが・・・何がまずいのだろう。損切りができないんだよなぁ。
自分がプライドが高いのか低いのかわからん。自分では、くだらないプライドは捨てるべきだと思っているのだが。というか、プライドがないのがプライドなんだけど。
不吉な予兆を知らせる鳥が、私の頭上を低く旋回する。
以前どこかで見た風景。
でも今回はきっと大丈夫。
何かを一緒に乗り越えてきた自信はある。
もしもここで壊れる程度のことなら。
最初からなかったと思えばいいだけだ。
そしてあの人はそんな馬鹿じゃない。きっと。
女にはだらしがないけれど。
臆病な自分の心が見せる幻影におびえるのは、もう嫌だ。
それは話をまとめる労力と得られる結果が等価値かそれ以上なら。
あるいはどうしてもそれをする必要がある場合の話だろう。
何気ないことから発生したただの諍い、まして匿名空間での出来事ではさっさと窓を閉じた方がいい。
「え、でも、私なんてどうせバカだし、やっても意味ないし」
こういう卑屈なこと言う奴すげームカつく
は?わかってんならやれよ。やんないんなら黙ってろ。
と言いたくなる。
「やってるうちに得意になれる」というのは「レベルの高い素人」でおしまいなんだよ。
そこから「辛い努力」を積み重ねても「二流のプロ」になれれば上出来、という世界が広がってるんだ。
料理だってそうでしょ。家族に喜ばれるレベルの料理を作るのはあなたぐらいの素質があればそれほど難しくないかも知れないけど(でも俺みたいな味音痴には自分でさえ満足できるレベルの料理を作るのは難しいんだぜ)、プロの料理人になるのはとても難しい。最高の料理人は最高の芸術家でなければならないからね。
勉強だって同じこと。「博士ワープア」って聞いたことあるでしょ。そういう人たちはつまり「料理のプロになろうと思ったけどファミレスのコックにぐらいしかなれなかった人」みたいなもんだよ。まして、博士に行こうと思っても行けない学生(東大生であろうとも)がいることを忘れちゃいけないよ。
何でもかんでも「人それぞれ」で済まそうとする風潮はいかがなものかと思うんだ
あれ?そこはそういう返答なんだ?
いま「固ッ定資産税ッ!」のとこなんだけど。こういうのにうまく返す技もってるんじゃないん?
漢字問題とか以外、A→B→Cってフローチャートが構造化できてますか?って聞かれるようなのばっかだったけどなー…?少なくとも2003年以降の国語からは。
俺の友人との会話はこんなかんじ
A「駅前に布団屋さんあるでしょ?あれ商売成り立ってんの?」
B「いやー売れてないと思うw」
A「売れないのにどうして駅前で店やってられるの?」
B「ねー、なんでだろうねー」
俺「それ、店やってると固定資産税が安くなるから」
A「へーそれってどの程度の減税効果があるの?家賃収入を上回るぐらいの利益が出る?」
B「店をやってるって判断の基準も知りたいよね。だれか税務署とか確認にくるのかな。」
俺「いや、しらない」
B「ググレカス」
でもさー、内容と口調は別々なんだから、だったら柔らかい口調の方がよくね?
理想はプラスの感情だけ適度に出してマイナスの感情は抑えるかそもそも発生しないようになることじゃん?
で、「冷静な状態」ってのは感情がプラスの状態のときに起こりやすく、マイナスの状態のときに起こりにくいとする。
だとすれば全部適度なプラスの感情状態に置けば冷静で内容重視にできるんじゃない?
つまり「感情がプラスかマイナスかによって内容なんか変わってしまう」のではなく「マイナスのときのみ変わってしまう」っていうこともあり得るんじゃないかと思う。
だとすればあとはいかにマイナスの感情を抑えるかってだけになってくるんでさ。
まあ全部仮定の話=詭弁なんだけどさ。
子供の頃からディベートやらせて、負けても勝っても、それでもそれはそれで別として、お互いに尊敬しあいましょうね、見下したりしちゃだめですよ、とか先生がいちいち最後に言うとかしないと、そういう感覚は根付かないだろう。
「議論での否定は、人格否定とは違う」というのは、正しいは正しいんだが、それは「学んで身につく正しさ」だから。
人間が自然と最初から持っている感覚ではない。寧ろ、自然状態の感覚とこの正しさというのは食い違っている。なんであれ、攻撃されたら身構えるのが自然。議論の否定だろうがなんだろうが「自分を否定された」と感じるのがある意味もともとは当然なこと。それを「違うんだよ。それとこれとは別なんだよ」というのは、「学習」しないと身につかない。自然に放っておいて学ぶようなことじゃない。
でもそれを学ばせてないのだから、大人になっても「案を否定された→俺自身を否定された!」と思ってしまう人がいるのも、ある意味仕方が無い。