あるコラムにこのような文章があったそうだ。
医師の立場は、その専門性や責任の重さにおいて、教師とは似て非なるものだと思う。しかし、私が尊敬できると思えた教師たちは「教育は不確実だ」とは言わなかった。「教育は子どもたちに影響を与えることができる」と信じていたからだと思う。
この文章を紹介しているブログではつっこんでいないが、この文章には論理の飛躍がある。ここでいう「教師」は、文脈から、「学校の教師」のことと思われるのだが、まず、医師の仕事が「病気・怪我を治して患者を退院させること」だという前提があるのが変だし、次に、「(学校の)教育」の目的がはっきりしない。学校教育は子供に「影響を与える」ことが目的なのか?
これが「学校の教師」ではなく、「塾の講師」ならまだわかる。「必ず現役合格させます」というから塾にやったのにうちの子は浪人することになった、どうしてくれる、ってクレームがないわけではない。しかも「必ず現役合格」というのは親が思い込んでるだけか、営業のセールストークで思い込まされているだけで、チラシには「現役合格率○○パーセント」としか書いてない、ということもある。
それと、「うちの子」は家で復習すらしないのに、「塾にやってもうちの子の成績は上がらない」っていって、塾の講師の教え方が下手だからだって勝手に断定してクレームしてきたり。そういうクレームをつけてくるのは、どう教えられても頭に入らないことがある、という経験がない人かもしれないが。
でもやっぱり、「医師」と「教師」を同じに扱うのは変だと思う。
両者を同じに扱う限り、お医者さんが「最悪の場合死亡もありうる」ということは、塾講師が「不合格もありうる」というのと同じかもしれないが、塾の生徒の場合は「結果がダメだったのならそれは本人の努力が足らなかった」とか「試験で運が悪かった(勉強したところが出なかった)」ということで、本人も他人も根本的なところで納得できる。でも、患者の場合は自分の努力ではどうにもならないことが少なくなくて、「ダメだった」ときにはもう本人はいないかもしれないし、「運が悪かった」というのも家族は納得できないかもしれない。「現代の医学ではどうしようもありません」という説明でも「そこを何とかするのが医者だろう」と食い下がる人もいるだろう。(医学とか科学とかは万能じゃないんだってことが、ほんとうの意味でわかってない人が、世の中、けっこう多い。)
だからといって「ダメかもしれませんよ」と医師が家族にあらかじめ伝えておくことが、「医師の逃げ道」だとか、「教師や講師は『受からないかもしれませんよ』とは言わないじゃないか」というのは、おかしいと思う。