2008-01-11

好きは不寛容

大大大好きな原作(個人的ランクはS)だと、もうアニメ化ですら「改悪だ!」と感じる事が多い。

結構好き、くらいの(個人的ランクはA)だと、メディアミックスを一番素直に楽しめる。アニメや実写も、よっぽどの改悪じゃなければ、大抵「おお。結構いいんじゃね?まあちょっと違うとこもあるけどそれはそれであり」みたいな態度になれる。

普通??別に興味ないくらいのものだとまあそもそも見ない。

個人的に、好きになるってのは、不寛容になるってことなんだ。

そのものに対してじゃなくて、そのもの以外に対して。

だってそうだろ?あれもこれもどれもいいよ、って状態は結局、アレもこれもどれもどうだっていいよというのと同じなんだ。

滅茶苦茶好きな状態ってのはその時点で、そのほかのものと心の中で「オレの好きなもの:それ以外のもの」って分離されちゃってる。そいつの中ではその好きな物というのは他の物と決定的に違うわけ。他の物と違ってこれがどうちがう、あれがどう違う、どうすごい、ってあるわけよ。これ「こそ」がナンバーワンの面白さ!とか、これ「だけ」が偉大作!とか、一番好きなものっていうのは、その「一番好き」な時点で、他の物に対して不寛容になっている。ランクSくらいのものは、ちょうどその辺りで、「一番好き」とかそういうレベルの話だから、必然的に不寛容を含んでる。

ランクAくらいだと、そこまで絞ってない。一番ってわけじゃないけど結構いいよねこれ、くらいの位置だから、よっぽど変なことされない限り、寛容できる。

その下のランクになってくると最早「どうでもいい」。どれでもいい。どれも違いが分からない。全部似たようなものになる。自分にとっての差がなくなる。だから原作より上だとか下だとか、どうだっていいとなる。

特に拘りがなく、どれも全部好きです、というのは、一見すごい愛に見えるが、実は「どれでもいい」のと同じ。「どうでもいい」のと同じ。あくまでそれは博愛であって、特定の個を愛するものじゃない。「全ての女性が大好きです」という人は一見いい人に見えるけど、実は恋人にしてみたらこの人ほど厄介なものはないというのと同じ。その人にとっては全てが均等に大好きだから、恋人も好きだけど、他の人も同程度好きって事になる。普通はそうじゃない。この恋人だけが、好き。他の異性はそうじゃない(実際にはそんなにはっきりはしていないが)。だからこそ個々の間に愛がなりたつ。だからこそ「他の女じゃダメなんだ」となる。その度合いが強ければ強いほど「この恋人じゃないとダメだ」となる。そういえば、人間だとこういった事は寧ろ好ましく映るというのに、なぜだか物に対してそうなると割りと皆そういう感情を嫌がるのは不思議だ。

その作品が好きであればあるほどこれ以外のものを認められない。博愛でなく、個に対する愛には、あらかじめそういった不寛容が含まれているため必然的に「信者」になりやすい。好きになればなるほどに。宗教なら、その教えを好きになればなるほどに信者になる。

信者と化した人は、常人には理解できないほどその作品を好きになってしまった人たちの事なのだろう。

個に対する愛とは他に不寛容になる事に等しい。博愛というのは全てどうでもいいことに等しい。

その中間である「Aランク」は、だから一番楽しみやすいのだ。

健全な生活を送るなら、作品に対する好き度をAランクで留めておくべきだろう。それ以上踏み入れると、「信者」となってしまう。それは悪いわけじゃないが、今の世では生き難い。

……でも、信者ライフも結構それはそれで面白いけどね。度を越した「好きなもの」があると、ある種人生に張りが出るよ。「絶対的なもの」が自分の心にある状態ってのは、結構それはそれで生き易い面もある(だから宗教って広まるんだろうな)。

  • まあ好きでないものはどーでもいい、てのは同感。好きじゃない異性はいい人でもいやな人でもどーでもいいからね。 それしか見えないんだろうな。浮気性というのはどうなんだろう。...

  • 死ぬの怖いのならまあ止めた方がいいよ。 他にやりたいこと、やる気がなくなって、死ぬこと怖くなくなったらすればいいだけ。

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