価値観が多様である状態で主観的な比較と客観的な比較が完全に一致する可能性はないと言っていいと思う
例えば物質的な面だけで言うと
金が無いのは、不幸だ、だから、社会福祉として働けない人に金を配るべき
ここまでで異論がある人はそんなに居ないと思う
しかし、月に幾ら渡せばその人は幸せになれるのか?
ただ生きていけるだけか?働いている人の最低収入と同じだけか?平均収入と同じだけか?
立場によって、その働けない人に渡すべきと思う金は変わるし、それが多かろうが少なかろうが
その働けない人本人が、自分は貧乏だから不幸だと思うか思わないか
援助してる人が、多額の負担をさせられて不幸だと思うか思わないか
全員が不幸だと思わない金額設定の方法がもし考案されれば人類史に残る出来事だと思う
よって現段階で、みんなが幸せとなる可能性がない
なので、みんなが幸せで有る事が俺の幸せという人が幸せになる可能性が無い
結果みんなの幸せが俺の幸せと思う事そのものが不幸な人を1人作り出しているというだけの事である。
ただし、例外はある、全人類を洗脳して、その結果自分は幸せで有ると全員が思ったとき
洗脳されている状態で幸せだと思う事が幸せで有るとするなら、これはひとつの解決策ではあるのかもね
ちなみに
http://anond.hatelabo.jp/20071013010938
は私が書いた
あまりにも物の見方が一方向的すぎるな。「他人を叩くことで」というが、ではその「他人」には叩かれる要素がなかったのかの考察がなされておらず、「叩く」という現象のみを取りあげて一方的に非難するのはアンフェア。また、ボクシングファンが亀田をどんな思いで見てきたのか、知らないのは別にいいのだが、想像することすら出来ないというのは想像力が足りない。
「一方向からしか物事を見ずに叩く」というのは、今まさに君がやっていること。「他人を叩くことで憂さばらししている」のはまさに君のエントリじゃないか。そのことに気づいてる? 物事の一面しか見ずに、世の中の事象にレッテルを貼って世界を理解した気になるのもいいが、そういう考え方は自分の世界を閉ざしていくだけだぞ。一応忠告しといてあげる。聞くか聞かないかは君次第。もう寝るのでレス不要。自分で考えなさい。
他者を叩くことで憂さ晴らししているクズって言う点ではまったく同じ。
雑なレッテル貼りだな。本気で思ってるのそれ? バカすぎるんだけどw
世の中の多くの人には関心のなかったもの。
それは単なる思い込み。
本当に嫌いならそもそもコメントすらしない。
まず嫌いと無関心が違うということを勉強しよう。
このツンデレが。
世の中の多くの人には関心のなかったもの。
そんな狭い仮想世界の中で誰がどんな卑怯な手を使おうが予定調和にすぎない。
本当に嫌いならそもそもコメントすらしない。
呼び出してるモジュールが、C:/Perl/site/libでもC:/Perl/libでもないところに入ってるのではないか。
use lib './lib';
とか
use FindBin '$Bin'; use lib "$Bin/lib";
俺はアンチ亀田だが、別に亀田なんて今すぐ全員切腹してくれてかまわんのだぞ?
もともとアンチ○○というのは、卑怯な連中が卑劣な手でのし上がる時に生まれるものだからな。そういう構造的な問題に気づけないというのは、君がだらだらいい加減に生きているからだよ。
例えばマスコミなどがガンガン流せば、世捨てでもしない限りミームの雨をうざったいほど浴びることになるわけで。個人的には例えば亀田一家とか、セカンドライフとか、うるさい行商とか。亀田一家が全く存在しないかのような世界にワープしたいが、そんな電波系妄想したって現実になるわけではないし。フィルターかけたって隣人がフツーに話題振ってくるとか勘弁してくれ。
亀田を叩いている人たちは自分たちが彼らによって楽しませてもらっているという意識がない。
この容赦なく叩ける幸せよ。
足を向けて眠れない。
というか普段どれだけ鬱屈してるのかと。
ボクシングが熱い。というか亀田一家というボクシング家族が熱い。
私はスポーツ全般に疎く、野球は辛うじてどのチームがセリーグかぐらいまでは分かるのだがそのほかの諸々は全然分からない。
そんな素人でも亀田一家は言動が汚く世間に嫌われていて次男坊はなぜかリングで歌を歌うことぐらいは知っている。なので熱いというのは世間を騒がせているというか露出度が高いという意味である。
話題のタイトルマッチ(内藤大助vs亀田大毅)の写真を見たが、最初の感想は「どっちもイイ身体してんな」であった。ネットで最弱とかまで言われている次男大毅君だが若さもあってチャンピオン内藤よりも筋肉に張りがあるように見えた。八百長とか何だとか言われてるが身体は作っているわけだ。
内藤の試合後のインタビューでも試合態度に文句たらたらながらもボクサーとしてのポテンシャルはあるというフォローのような惜しむようなそんなコメントも出している。
ふとボクシング漫画「はじめの一歩」にそんな話が無かったかと思った。とても勝てそうに無い格上のチャンピオンに挑戦するために反則も厭わず試合に挑む、みたいなもの。ドラマとしてはあり得るだろう。
そしてボクシングには厳格なルールとレフェリーとジャッジがいるわけで、反則にはそれ相応の対応をすればいい事なのではないか。
亀田一家の試合は視聴率が良いそうだ。この試合で平均30%近く最大40%にまでなった。兄興毅に至ってはさらに10ポイント増しになるらしい。ボクシングなんて嗜好の強いスポーツでここまで注目されるのは素材としては化け物以外の何者でもない。しかも亀田一家はヒーローではないのだ。
皆「偉そうでムカつく亀田の誰かが負ける」のを期待して見ている。スポーツとしてのボクシングは関係ない。因縁のドラマをゲームで決着を付けるという、まさにプロレスとしかいいようが無い興業(ショー)としてここにある。
一方でボクシングはずいぶんと奥深くセンスと技巧に富んだスポーツらしい。
からも伝わるように、良い試合ではお互いの才能と弛まぬ鍛錬でギリギリまで研ぎ澄まされた技術を認識し互いに敬意を覚えずにはいられないということなのだろう。
専門のスポーツライターは亀田一家がそういった才能や職人的な技術を軽視するような言動を嘆いているようだ。
この試合では内藤がフェイントを多用している話が出てくる。腕の挙動だけでなく、眼球の動きでも機を偽るのだそうで素直に感心してしまう。が、全然分からない。
正直私はテレビでボクシングの試合を見ても入っているパンチとガードされているパンチの区別もつかない。解説の人は要所で興奮するので分かる人には全部見えているのだろう。
結局のところ亀田一家へのブーイングもスポーツライターのような専門的視点ではなく、ヒールとベビーフェイスというプロレス的アングルへのお客のヒートアップに過ぎない。
だとすればそれは亀田一家の演出する「ボクシング興業」の上にしか成り立たないものではないのか?ショーとしての分かりやすさに皆が注目しているのにそれを否定するという皮肉。「このままではボクシングが駄目になってしまう」‐本当にそうなのか?駄目だったのは(派手さの無い軽量級)ボクシングだったのではないのか?
野球にしてもサッカーにしても興業の成功は子供時分に誰もが経験したゆえの観客の理解の厚さによるのではないかと考えている。かつてボクシングはチャンピオンが国民的ヒーローであり、ボクシングをやることがファッションだった時期もあった。その後日本は豊かになり、今後この殴り合う過酷なスポーツ競技人口が増えるとは思いがたい。
スポーツライターがその深い造詣で玄人らしい分析をするのも良いが、今必要なのは武道のような求道的態度でなくわかり易さなのではないだろうか。
(今や少数だが)野球はお父さんたちに日々の活力を与えてるんじゃないかと思う
ドキドキしたい。恋したい。ときめきメモリアル。
スポーツが悪いんでは無いと思う。
もしお前が童貞じゃないなら死んでくれ。
俺は尊敬8割呆れ2割だなぁ。
単に、彼氏もいないようなのは女として終わってる、っていう周囲のプレッシャーじゃないの。若い人とか、付き合ったこと無い人とかは特に。