目の前で車にひかれそうなおばあちゃんを救ってきた、過去の多くの
人たちのどれだけが、その車にひかれそうな一瞬に、
損得勘定をめぐらす事ができただろうか。
その時々の瞬間に意識して損得勘定をするかどうかは人それぞれかと思います。
少なくとも私は、助けることによって自分の被る損害は考えます。
おばあちゃん助けて自分が死ぬなんていうのは勘弁です。
このような、人とかけがえのない関係を持っていたいという社会的欲求は、
人間の三大欲求と同様に他のもので代替するのが難しく、
損得という別のものと交換して考えるのが人間にとって難しい。
そのため損得勘定で考えるのも難しい。
欲求を満たしたいと思うこと、欲求を満たすことそのものが損得勘定なのではないですか?
便所でネットって、何かこう、におい漏れそうとか見られてそうとか、そういう感じがして落ちつかなくない?
もちろんそんなことありえないのはわかってるんだけど。感覚的に。
その人にとって何が「得」か、が問題じゃないのか。
自分の常識を破り良心に背いて法に触れないギリギリで利己的に生きれば、お金を得られて良縁に恵まれて天寿を全うできるのかもしれないが、それが「得」かどうかは人による。
人間的かどうかしらないし、関係を維持するためかどうかは不明だけど
自分の常識や良心に背くことの損失を回避するためでは?
自分の常識や良心に背く事が損失になるのだろうか?
むしろ自分の常識を破り、良心に背いて法に触れない
ギリギリで利己的に生きた方が特になる場合が多いのでは。
こんなメタ視点の混乱は詭弁の初歩的なテクニックでしょ。釣られちゃ駄目だよ。
「クレタ人がクレタ人は嘘つきだと言った」からやり直そう。
その社会的欲求を満たしたいと思うことが損得勘定に内包されるような気がするのですが。
意識として、損得勘定が先行しないということには同意できますが
それはあくまでそのように「見える」ということなのだと思います。
そこまできたのなら答えは簡単で、
その後についてくるものである、ということを暗に認めているのと同様。
目の前で車にひかれそうなおばあちゃんを救ってきた、過去の多くの
人たちのどれだけが、その車にひかれそうな一瞬に、
損得勘定をめぐらす事ができただろうか。
このような、人とかけがえのない関係を持っていたいという社会的欲求は、
人間の三大欲求と同様に他のもので代替するのが難しく、
損得という別のものと交換して考えるのが人間にとって難しい。
そのため損得勘定で考えるのも難しい。
つまり損得勘定で人間関係を考える事はできないという論理となる。
異性と結ばれ子孫を残すという行為も、睡眠や食事で替えられないのと同様。
損得は損得を超えたところにあるってことでしょ。
短気の短期的にいま、ここで気持ちいいとかお金リッチとかウホっいい男女!というとこで損得勘定を締めにしないから、長期で見て。
損して得取れと思ったらやっぱり損したとか、その逆とか、いろいろ。損得比べしてもしょうがないよ。
この行為には未来に対してなんの得のない行為だが、
人間的とかなんとかいう言葉をわざわざ持ってこようが来るまいが何も変わらない。
「損・得」という単語がそんなにイヤなら「快・不快」で置き換えて考えてみるといい。
隣の芝生は青くみえるか?
隣に引っ越したいというのか?
ところで自分の芝生を青くしてみたか?
そもそも芝生は青いのが一番良いのか?
というか、お前は庭の手入れをしている立場なのか?
しないのは、やることができないのか?やらないだけなのか?
で、お前は隣にひっこしたとして、そこから今いる芝生が青く見えたらどうするんだ?
おまえは、ただ芝生が青いところを探しているだけじゃないか?
でも、俺は引越しをするだろうけど。
5年勤めた会社を辞めると宣言した。上司や同僚はきっとびっくりしているだろう。でも、自分にとっては、辞めることは必然で、辞めなければいけないな、と思うまで追い込まれてしまった。
ある日、何の気なしに、奥の棚に眠ってたエヴァンゲリオンを見た。見てて涙が止まらなくなってきた。アスカに完全に感情移入してしまった。テレビのOAで見た15歳の時も、ビデオを買った20歳の時も、全くそんなこと思わなかったのに。今。
これって、俺じゃん。俺以外の何者でもない。
もちろん、会社が悪くて、もっといい場所でいい仕事をすればいいさ、と前向きに考えることも出来るだろう。でも、やはりそれは逃げであり、最初の舞台で大成できなかった自分がいるだけだ。それは覆しようが無いと思う。
アスカは、最後「こんちくしょう、ころしてやる・・・」と執念を見せながら、舞台から姿を消した。作品の中では、それで終わり。
社会的欲求にかりたてられるのは天秤にかけた結果それが「得」だからじゃん
かけがえのない関係性を維持することも「得」なの
では、親とのかけがえのない関係を維持するために、親の最後を看取るという人間的行為は
どういう風に説明されるのか?
この行為には未来に対してなんの得のない行為だが、
多くの人が親の死に目には一緒にいてあげたいと考えるのではないだろうか。
という現象に名前が欲しいのです。
でも、もっと脳細胞がハジケた感じがほしい。
あー自分じゃさっぱり思いつかない。
Re:[http://anond.hatelabo.jp/20070329193007:title]
お告げきたってのはなかなか良いかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20070329193007
これもいいなあ。テディベアエフェクト。
人は損得関係以上に、まわりの人間とかけがえのない関係性を維持したいと考える。
これが、世の中の誰にも知られぬボランティアや募金活動などが成立する理由でもある。
つまり、その時人は損得勘定を持っているのではなく、このような社会的欲求に
かりたてられているのであって、損得勘定が先攻しないということである。
その社会的欲求を満たしたいと思うことが損得勘定に内包されるような気がするのですが。
意識として、損得勘定が先行しないということには同意できますが
それはあくまでそのように「見える」ということなのだと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070329191239
その時人は損得勘定を持っているのではなく、このような社会的欲求に
かりたてられているのであって、損得勘定が先攻しないということである。
社会的欲求にかりたてられるのは天秤にかけた結果それが「得」だからじゃん
かけがえのない関係性を維持することも「得」なの
もういやだ全然うごかないだからイヤだっていったのにダレカタスケテ