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はてなキーワード: 別子銅山とは

2023-10-15

anond:20231015181406

1905年明治38年3月会社としての古河鉱業経営となった。当時の明治政府富国強兵政策を背景に、銅山経営久原財閥日立鉱山住友家別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には、日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した[1]。

しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲環境汚染公害)を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である1891年明治24年)、田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より、鉱毒予防工事渡良瀬川改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

 
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